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心の翔
(エッセー・登場者仮名)作者:村田としのり (ペンネーム) (素人の自作ですが、コピーはしないで下さい!)


直線上に配置 心の翔
第一章 唖然
第二章 入院患者の人々
第三章 教授回診
第四章 赤裸々
第五章 ため息吐息
第六章 憎しみの連鎖
第七章 医療不信と家庭崩壊
第八章 翔る心&男の子育て(最終章)



波乱万丈の平成の幕開け


プロローグ

 人は誰しも生まれながら不幸を望むものなど誰もいないであろう。益してや自分の人生が想像を超えた時、人はその人生を受け入れるまでには可也の時間が罹りうることまで実体験をしたものでないと分からないかもしれない。例えば、地震の被害に遭われた方や不幸にも通り魔殺人や事件・事故など自分の身にまさか降懸ることなど思ってもいないような出来事は、全て他人ごとのように感じてしまうのが常であるし、そうしないと杞憂になり人は何も出来なくなってしまうからである。つまり、人は他人の不運に対しては他人事としてリセットしなくてはならない生き物なのかもしれない。その為人の不運は、ほとんどの人が関心は持っても自分に置き換えて感じることは出来ないのである。

この世の中人間として誰も一人では生きていけない。全て他人との交わりによって人生が形勢されている。人との巡り合わせによって人生の選択が生まれていくことも無意識の選択の中で起きうる。人生を送る中で人はどれだけの人と関わりあうのだろうか。こんな問いかけをする人はいるのだろうか。ただ、一つ言えることは、人生には必ず自分の生き方を変える人に巡り遭うものなのだ。それが、本来は楽しくもあり、また辛くもある色々な人生模様の醍醐味でもある。
ここに登場する人物は私自身であり、まさかの人生の中に遭遇し人生の選択視を軽んじた人物なのである。
当然のように私は、誰もが歩んでいる平凡且つ幸福な人生を信じてやまない暮らしをしていたのである。
それが、一人の人と偶然出会いその人を信じるがために陥ったために後に不遇を背負うことになる。ただ、人生の選択肢を間違えたと断言できる程人生は普遍且つ奇遇なもので、現在(平成十七年)になっても分かりえない進行形の物語を語ることになる。

さて、30歳までの彼の人生は、自分の描いた想像内にあった。中堅の大学を出て中堅の会社に就職し、25歳の時に恵まれた伴侶と生活し、子供も一男一女を授かり何処にでもある夫婦喧嘩もして、生活の苦悩を味わいながらもそれはそれで楽しい時間をすごしていた。彼とは、つまり私本人であるがこの物語の人物であるのだ。
私の性格は、生まれつきのお人よしで優柔不断の男であったが、一般的にいい人の中に入る部類の人間であった。

そんな男の身に突然と降りかかってきたのが、腰痛なのである。こんな些細な病気から想像も出来ない人生を送ることになるとは、本当に不運としか表現が出来ないのである。
近頃は、自然治癒という言葉が盛んに用いられているが、昭和63年の時代にはまだまだ一般的な言葉ではなかった。その言葉が当時の私に伝わっていれば、又違った人生を送っていたのかもしれない。ただ、人生にはもしもということは無いのである。ドラえもんのタイムスリップする引出があれば別であるのだが・・・・・。

私の腰痛は、単なる腰痛ではなく椎間板ヘルニアという病気であった。この病名も当時から珍しいものでもないのである。だた、当時は、椎間板のヘルニアは少なくとも凹むことは無いといわれていた時代である。だた、手術になる対象は椎間板ヘルニアの症例から10〜15パーセントくらいで後は安静を保ち牽引をして神経根ブロックをすれば痛みなどの症状は軽減できるかアル程度は回復するというのが常識の範囲であった。私も色々な専門のホンを読んでそれなりの知識は持っていたのである。
だが、私の場合手術を選ぶことから人生の転換期を背負うことが始まったのである。それに、巡りあった回生病院整形外科医ドクター月岡との出会いも私の人生の曲がり道を大きく変えた一人であることには間違いないと言えるであろう。
今は、セカンドオピニオンをとるのが最適な治療を得る方法だとされているが、当時の私も椎間板ヘルニアと診断を受けた時には、国立三重大学付属病院で診断を受け月岡ドクターの診断も話して、大学病院からも月岡先生は信頼出来ると太鼓判を押されて月岡を信じることにしたのであった。
ドクター月岡からすれば決して私から非難される覚えも無いことはきっと主張するだろう。自分こそがこんな患者を見たことが最悪になったと思っているかもしれない。

ただ、椎間板ヘルニアの手術後、異常な激痛を訴えたことにドクターが再三に渡って手術をしたことは、月岡ドクターの判断が正しかったのかと問われても仕方ないと思えるのである。彼が私に執刀した手術とは、第一回目が椎間板ヘルニアの髄核摘出術・第二・三回目の神経癒着剥離術・第五・六回目の椎弓摘出術・第七回目第四左神経根切断術の第八回目永久ブロック術判断を下し手術をしたことは事実である。つまり、五年の間に他の大学病院での手術を含めると八回の手術をしたことになるのだ。
私自体も、ドクターの意見を信じたことも事実であり、その間に平成一年に出された”医者が選ぶ病院”をいう本が出版されたという新聞記事に釘付けになった。私は、その時まだまだ回復を摂に希望していた時期であり、月岡ドクターにその本を見せた。私立の藤田保健衛生大学病院は過去に他の病院で治らなかった患者も受け入れると書いてあった。また、偶然にもそこの事務局長が当時勤めていた社長の同級生で社長もその大学病院を薦めてくれた。私立の藤田保健衛生大学病院へ転移して第四回目の前方固定手術を受けたこと自体とその後の転移病院として、月岡ドクターのいる病院を選んだのは私自体ある。
このように他数回に渡る手術を受けること事態、人から見れば異常なことであろう。もっと違う治療を選ぶべきであろうと思うのは当然である。私も、周りの人々から整体医院へ行ったり、針治療をしたりとそれは騙されたと思ってでもという言葉に縋りついたことも何度もあった。ただ、自分をここまで追い込んだのは痛みなのである。痛みと言っても人に表現出来る言葉には、可也限りがあるのだ。言葉に出来ないほどの痛みが私自身を追い詰めていったのである。

痛みの仕組みを色々なドクターからも説明を受けたこともある。幻視痛という不思議な痛みのメカニズムを聴いたこともあった。まさしく、腕を切断した人が無い指先が痛むということがあるそうなのだ。これが幻視痛なのだ。 自分にも当てはまるのかは不明であるが、その言葉は理解できた。痛みがひどく、手術を繰り返すと自分が求めていた元道理の体に戻りたいという考えからどんどんと遠のいていく。最初は方松葉杖から両松葉杖になり、平成8年の第九回目脊髄電極埋め込み術の時には車椅子へと生活も変っていった。こうして文章で書いていると素直に自分を受け入れていったかのように思えるかもしれないが、決してそうではないのである。

ある時、会社の人に自分は回復出来ず退社を申し出たときに、自分は障害を持って生きていかなければならないため今の仕事を続けていくことは出来ないと伝えた。その時、ある工場長が体は不自由かもしればいけど彼方の出来る仕事をすればいいじゃないのか。といわれた時に、自分は健康ならどんな仕事も出来るけれど、障害者としてはこの会社では働くことは出来ないと答えた。工場長は、どうして?という風に聞き返した時に、自分は健常者として給料をもらって管理職まで頂いているが、これからはそれが出来なくなると言うと、工場長はそれについて反論された。そう思うことは、あなた自体が障害者に偏見を持っているからではないのか!と言われ、自分の中の醜い偏見があることに気がついたのである。要するに、自分では無意識のうちに障害を偏見としてみていたのだ。率直に心の中を見抜かれたと思って、顔が強張っていたことを思い出す。

人は、心の奥底に偏見を持っている。もし、全く持っていない人は、それは育ててもらった親や周りの環境がすばらしい状況にある人がいるとすれば尊敬する。ただ、私自身の育った環境の中では無意識の偏見が育てられていたことになる。
また、障害をそのまま素直に受け入れる人もいないだろうと思う。 少なくとも、私自体は未だに受け入れに抵抗を持っている。でも、生きていく上で綺麗ことは言っていられない。
精神を病んで、うつ病にもなった。三重大学付属大学病院の精神科に一年半通った。その時は、もう自分を受け入れられない時期でもあったし、ペンタジンという注射依存症にも陥った時期と不幸にも家庭破壊平成9年1月別居になり、妻とのその年の11月に離婚が重なった時でもあった。
本当に悪いことは重なるとは、昔から聞くが八方塞(はっぽうふさがり)であった。救いは、子供たちが自分のところに残ってくれたことが嬉しいことであった。無力な父親の姿は見せたくなかった。なんとか、体と心の病をだまし騙しの日々が続いていた。その頃、漸く、明かりが見え始めたのが平成八年の暮れからで平成五年以来三年間くらい暗闇の中だったのが、今で言うハーローワーク (当時は職業安定所)からの勧めで障害者職業訓練センターに入ったことである。三週間ではあったが、そこで障害を持った数人の人とOA機器の操作を教育させて頂いたことが、自分を吹っ切れる状態になっていたのだ。病院では、もちろん車椅子の人はいたのだが、入院仲間としてはそれなりに楽しくあったし、世俗から隔離された非日常の仲間としては連結もあり、エピソードも多くあったけれど、退院して自分の家に戻ると実生活の中には障害を持つことの不自由さだけが目について心が狭くなっていくもである。けれど、職業訓練センターには車椅子の方3人と半身麻痺の方がいて、みんなと話していると明るい心が芽生えてきたのである。一人の車椅子を乗った方も病院ではあれだけ体の不自由な人がいたのに、自分の家に戻ると全く車椅子の人と合う機会がないのはなぜだろうと話をしていたのである。センターの教育の時間は早く過ぎて行き、みんなと別れる時が来たが、その時、ちょうどセンターの所長から障害者雇用の就職先があるので面接をしないかと持ちかけられ、トントン拍子に会社に就職が決った。一度は、自分の人生に否定ばかりしていた時期もあったが、諦めずに来られたことはこれまで自分と関わりあった全ての方に感謝したい。

子供たちと姉夫妻と励ましてくれた友人たち本当に有り難うと心より感謝をしています。
そして、腐れ縁とでも言おうか月岡ドクターには一度は全て信じたことにより最悪の状況下で私が感情的に先生を責めてしまい先生のプライドを損じたけれどその後自宅まで来て手術ミスとは言わないが結果的なミスとなったことを認めてもらったことでやっと私自信心の整理がついたことを感謝します。

また、私を診て頂いた国立三重大学付属病院の整形外科医のKドクターと麻酔科のKドクター夫妻に感謝している次第であります。そして、平成3年より痛みのだびに24時間体制でこの私を受け入れて頂いた地元の千里クリニックの先生及びナースさんには頭を下げても足りないくらいお世話になっています。現在も深夜も含め、痛み止めの静脈注射を毎日受け入れて頂き感謝・感謝です。この病院がなかったら、私のADLは成り立たなかったです。
子供たちは、それぞれ大学に入り自分の人生を送っている。苦しい時に助けてくれた子供たちだが、これからはどうなるのだろうか?私自身もまだまだ、何が起きるか分からないので不安は山のようにあります。未だに、痛みとの戦いを続けて、働いているいますが、痛みのコントロールは非常に難しいものです。痛みと付き合って生きていくことは至難の業であります。



第一章 唖然

 私は2度の手術の予定が決っていた時に大学病院から週に一度来る先生がいてある日回診の時にもう直ぐ癒着剥離の手術をしますと伝えると、大学から来られた先生がもう暫く様子を見てからの方が良いのではと忠告を言って病室から出て行かれた。私としてはもう手術の日にちが決っている段階でどうしてだろうと詰め所に出向いて、月岡ドクターにその旨を伝えると自分が決めたことだから気にしなくてよいと跳ね返してきたのであった。当時大学の先生の言葉をもっと深く聴く必要があったのだが後の祭りである。

2度目の手術を終えて、回生病院の真っ白な部屋の天井を見ていた。まだ、術後二日目であり背中に走る痛みは以前にも経験はしているとはいえ苦痛であった。なにしろ体を動かすことを一週間は禁じられているのである。増して、鼻からチュウブと手からの点滴と尿道に差し込まれた管が差し込まれているのである。おまけに今回は、背中からも管が差し込まれている。その管からは、血が少しずつではあったが流れていた。もうロボットのようだ。何とか、楽になりたいと思っていた。天井の壁だけ見ていると、今にも、壁が動きだそうとしている感じで堪らない。その時ふと考えたのである。

私の脳裏には前回の初めてこの病院を訪れたの時の状況を鮮明に思い出そうと努めた。
主治医の月岡ドクターは、まだ若く30歳にも満たないであろうことは、話し振り顔の童顔さからも読み取れた。初診に訪れた時に、交わした会話である。
「どう痛いの?」
「最初は腰が重痛く感じたのですが、先日アパートの階段を登っている時に急に左足が動かなくなったもので・・・」
その時、私は自分の父親が脳血栓で倒れたことを頭に描いていた。 月岡ドクターは、訝しげ(いぶかしげ)に何処がどう痛いの?というなり、 「ズボン脱いでそこのベッドに寝て・・・」
私はもそもそとズボンを脱いでベッドに座った。 「お尻から左足の先まで、ジンと痛みます。」
と、丁寧に答えたつもりだったが。 ドクターは、聴いていたのかどうか急に、 「最近は、このくらいの年齢の人が多いよね!」
と、40過ぎのナースに話かける。 「はい、上向きに寝て」
催促されて、月岡は自分が座っている腰掛椅子を足で蹴りながらこちらのベッドの側までやってきた。 私は、トランクスの裾が跳ね返っているのを手で直しながら、自分の父親の病気のことを話していた。私にとっては、どんな病気より父親と同じ病気が怖かったのである。 が、ドクターはそのことには何の関心も示さず、両足を曲げて左右の足の膝を小さなハンマーで、叩きながら左の足の反射が高いことをとても誇らしげにナースに、
「ねぇ〜典型的な例だよねぇ!椎間板ヘルニアの可能性が高いね。調べないと分からないけどね。」
少し間を取って、 「レントゲン撮った写真見て、このL5とS1の間狭いからね!その上のL4とL5の間も結構狭いなぁ!」
「そうなのですか?」
私には、レントゲンの写真なんかわからなかった。
「分からないの?じゃー普通の人の写真と比べると分かるよ!」
ナースは、待っていましたかと思うくらい直ぐに正常な人のレントゲンを取り出し、月岡は先ほど左膝の反射異常とラセーグテストで左足の上がる角度が30度で痛みを感じたことからも椎間板ヘルニアに間違いないと思いよと私に告げ、ナース何やら合図をした。ナースも苦笑いを浮かべ何かの書類を手際よくドクターに渡した。
「暫く、入院してベッドで牽引して様子を見ようか!」
「えっ、入院しないといけないのでしょうか?どのくらい入院が必要なのでしょう?」
私は会社が休みを取らしてくれるかが心配であった。しかし、今日も会社を早退して、自分の状態を知っているからまずは専務に話してみようと思っていた。
「一ヶ月くらいだね。その間に検査もしたいから、会社には僕が診断書書いておくからそれでいいでしょう!」
「宜しくお願いします。手術とかにはならないでしょうね」
不安げに聞いてみた。
「まぁ、後は入院してから考えようよ!」
素っ気無い返事だった。次のカルテを取り出してもう私の診察は終わったと言わんばかりである。
「ナースが説明してくれるから・・・・」
手際良いナースは、入院案内の説明書を見せて、私ズボンをあわただしく着けながら入院なんだなぁと思った。その時は、少し会社も休めて休養もとれるくらいの考えでいたのである。
  そうして考えていると、少しは術後の苦痛から逃れられそうな気がした。そして、また、三ヶ月前の手術のことを思い返していたのである。

一度目の術後は一晩ICUの部屋に居て、その後個室七日間過ごして大部屋に移った。個室は、全身麻酔をした手術の患者が入る為の個室なので殺風景な部屋である。私は一回目の手術をして以来、痛みの度合いが全く違って激痛に悩まされていた。 一度目の術後ICUに入ってから意識が戻ったのであるが、呼吸が異常に困難なのである。息を吸い込んでも普段の1/10くらいしか空気が入って来ない。その分、痰(たん)が絡まって(からまって)生き絶え絶えであった。インフォムド・コンセント(昭和63年にはこんな言葉は一般的にはなかった)を、私自身と妻と私の姉が月岡ドクターの説明を受けた際には、非常に簡単な手術だから1時間半で終わると説明を受けていた。心配性の姉恵子は、万が一のことはないかとしつこく聴いたが、ドクターは不敵な笑みを浮かべて
「そんなことがもしあったなら医者の免許がなくなりますよ!」
と、受け流して説明場の詰め所を跡にした。妻澄江は今回の手術は当初から反対をしていた。もっと違う方法があるのでないかと何回も私に言い寄ったが、頑として私の考えは変わることもなく、椎間板ヘルニアの出た部分は切らないと治らないと信じていたのである。私の頭には科学は絶対的な信じるになんの疑問も持ち合わせていないその為か、益々澄江の表情は固いままであった。当初の説明からは、予想を超えるほど手術の時間はかかっていまった。結局ICUの部屋に戻ったのは、三時間半有余を要した。妻澄江は、ICUから個室に移ったその時に、
「本当に心配したのだから・・・あなた本当に死にそうに見えたわ」
とそう言ったものの 「もし、この手術であなたが死んだらみんなになんて説明したらいいの?」
と、そんなにも心配していなかったと言いたげに笑った。
そうした話をしていると、手術の時に麻酔担当医井田ドクターが部屋に顔出して、
「昨日の手術苦しかったか?」
と、尋ねて、自分が手術の時に麻酔する過程で俯き(うつむき)での手術麻酔は初めての経験だったことを言って、私の返事を待たずに部屋を去った。私は、道理で胸が苦しく、肋骨が妙に痛いことも納得出来た。

そして昨晩のICUに居た時のことを思い返していた。自分でもその苦しみは、尋常なものでなかったことは覚えていた。確か、15時前に手術室に向かったが妻の話では18時半過ぎに漸く戻ってきたらしい。顔は、血の気もなく、呼吸も可也乱れていたと妻は教えてくれた。又、主治医の月岡ドクターが私の状態が安定しないことで、夜の23時半頃まで残っていてくれた。私は、23時頃までは嘔吐と痰吸引に悩まされて高熱も続いていたが、23時を過ぎる頃からなんとか気分も良くなった来たのである。月岡ドクターが珍しく、私のベッドの横に来て今から家に帰ることをわざわざ伝えに来たことは、ぼんやりした頭の中に記憶されていた。

その話を聞きながら、自分が手術を受ける前に同じ椎間板ヘルニアの患者がいて、二人とも手術の翌日から話が出来ていた。私もその二人とは入院中に親しくなり何かと相談していた。一人の患者は男性で、術後は回復が早く、だた足の痺れ(しびれ)が取れないと言っていた。もう一人は、若い20歳前後の女性だったが、回復は早かった。二人の手術とも一時間〜一時間半くらいで戻って来られ、女性の方は手術後直ぐに話しが出来て情報をくれたのだ。彼女の情報は、とてもユニークな経験を話してくれた。全身麻酔を掛けられて意識がなくなると、直ぐに周りが明るく輝き始めて、周りを見ると花畑が見渡す限り続いているらしい。そして、遠くの方から亡くなった祖母が現れ、こちらに来るなと言ったという。

 それに比べると、私自身はそういった経験をしていなかった。全身麻酔をかけ意識が遠のいて術後の終わりごろにドクターの声とか看護士スタッフの声がぼんやりと耳に入ってくることくらいを思い出すだけで、後は、息が苦しいとしか覚えていないのが事実である。ところで、自分の手術時間が予定よりかかった理由を聞いても、当初の一椎間の予定がもう一椎間に異常があったのでそちらに時間がかかったとの説明しかなかった。つまり、二椎間板の髄核を摘出したわけである。確かに、インフォムド・コンセントの際、MRIとミエロ検査で二椎間が悪いが、今回の手術は一番悪い一椎間だけをOPすると聞いていただけにオペ前の説明とは異なる手術を行ったことに疑問が残った。そして、手術2日目に月岡ドクターの回診の際に、今回の手術では出血が少なかったと自慢げに話して、寝ている私の左足を10度も上げないくらい持ち上げた瞬間、電流が流れるような痛みが腰から足に走り思わず”痛いー“と大声を上げてしまった。ドクターは訝しげ(いぶかしげ)な顔をして、ふと癒着を引き起こしているかもしれないと言葉をこぼしたものの、どうしたらいいとかの説明が全くなく、スーと部屋を出ていっていまった。妻と目を合わせどういうこと?と首をかしげたのである。この回生病院には、俗に言う院長回診はないからナーススタッフも余分な神経を使わなくてもいいらしい。

 私のベットアップから1日ことに5度ずつ起き上がるリハビリをするが、やはり5〜10分が限界で直ぐに横に寝てしまう。この病院には、理学療法士一人だけで、それも視覚障害の方がマッサージと鍼治療と電気刺激をしているので私のリハビリまでは手が回らないのが実情だ。六日目に漸く、ベッドで足を外に出して座ることが漸く出来るようになった。歩行訓練は看護士が付き添ってくれるので、妻は家に戻ることが出来た。
家には、私(31歳)と澄江(29歳)の子供たちが(4歳の長男幸利と長女2歳の遥)がいる。それに、脳血栓の父(61歳)と口悪い母(60歳)がいるのである。私の家庭はこの時点で、家庭崩壊の要素を十分満たしているのだ。
回生病院には、私より10歳くらい違う入院患者と楽しく過ごせる環境が作られていて、家庭の状況から少し解放された部分では気持ちリフレッシュ出来ていた分、妻の澄江にはその反動でストレスが何十倍にも跳ね上がっていたのである。
 私は 個室から大部屋に移ったものの、相変わらず痛みが残って歩く時も以前に増して左足を引きずるようになっていた。何度も月岡ドクターに痛みを訴えたが、返ってくる答えは決って
「手術したのだから暫くは痛みが残るけど、時間が経つと楽になるから・・・・」 
その繰り返しのまま時間だけが過ぎていったのである。リハビリのマッサージをしてほしいと頼んでも必要ないの一点張りなのであった。私事態は納得してなかったが、夏も終わりになり三ヶ月も休んでいることと、仕事への復帰を早くしないと会社の誠意を示し会社の仲間に気兼ねがどうしても気になっていたのであった。妻の澄江にそのことを話すと、ひどく反対をしてここで十分直さないと心配であることと、今の痛みの原因を見つけてもらい再発しないことを切々と私に意見をした。
私自身も妻のいう通りだと思っていたが、彼の周囲への目を気にする性格が妻の言葉を真摯に受け入れられなかった。妻も私の性格は結婚6年近く暮らしていると、自分の言っていることを受け入れないことを心の中では承知していたのである。と思いながら澄子は
「会社があなたを庇ってくれないのよ!自分のこともそうだけど子供たちがいるのだから、今直さないと困るわ・・・・」
言っても無駄とは分かっていても、自分の言いたいことはせめて夫には言わないと我慢が出来なかった。

私が、入院している間、義両親と暮らして同居に対して我慢の限度が超えていた時期だった。澄江は、専業主婦の為四六時中義母と顔を突き合わせいることが苦痛で堪らなかった、唯一買い物に出る時と夫の入院している病院に来る時が新鮮な空気を吸える時間だったのである。義母の何が嫌いかというと、義母は常に近所の人の悪口と農業のことだけの話しかしない人なのである。澄江は都会育ちで、農業には全く関心もなければ昆虫のいる田畑にいくことすら苦痛で、農繁期の時に食事を運ぶくらいが精一杯で、それすらも断りたいくらいだった。
私は自分の痛みが和らぐことはなかったが、回診時に月岡ドクターと話してもなんの解決にもならない為、九月に入って澄江にどうしても退院をしたいことを告げた。渋る妻に、
「ここに居ても痛みが取れないから、退院してもっと大きな病院で診てもらう方がいいのじゃないか!」
と、妻の不安を解消させるように説得した私であったが、どこの病院に行く当てもなかったのである。

そして九月に入って退院をしたが、一週間家で療養しても痛みは採れず内心は不安を抱きながら、会社へと復帰するも会社の仲間も入院以前より悪い状態を見て、会社の専務が市内の四日市立市民病院の受診を進めてくれたのである。私は元々痩せていたが当初あった53sから45sの状態になっていて明らかに正常な体形ではなかった。専務の勧めもあって市内の四日市立市民病院の受診し、以前の病院の紹介状とMRI写真・レントゲン写真と見せて今の状況を説明も終わらない時に、そこの小太りで年の頃は40半ばで金縁のメガネをしたドクター辻村医長が内の病院を民間の病院とは違うので、
「そんな写真なんか見なくても、最初から検査入院してもらうよ!」
「君が診てもらいたいというから、こちらは診ているけどね!一から検査をし直してもううよ!方針はこちらに任せてもらうからね!まず、絶対に治るって思わない方がいいよ。保障なんか出来ないからね!大体、人の切った後の治療なんて誰もしたくないんだよ!最初から内の病院に来ていればこんな状態にこんな面倒なことにはならなかったんだよ!」 と、自分言いたいことを捲くし立ててこちらを見ていた。辻村医長は若いドクターにこんなケースはまれであるから臨床的も面白いかもしれないことを小声で話していた。その間に若いナースが入院説明の用紙を差し出して話をしようとした。こちらの意見など聞かずに話が進んでいく。私は、唖然としながらもこのままだと、この病院の言いなりになってしまうと思った。
「申し訳ないですが、考えてもう一度出直してきます!」
と、入院手続きに入ろうとする話を中断させて、その病院を跡にしたのである。

その足で、元の回生病院に行く私はばつが悪かったものの、月岡に全てのことを話して自分のこれからの治療をどうすればいいのか決めようと決心していたのであった。もし、受け入れてもらえない時はその時点で考えればいいと楽観的思うように自分に納得させて病院へ入っていった。月岡が午後にも拘らず在院していて話を持てる時間をとってくれたのである。私は、少し緊張とどう言って話を切り出すかを頭の中で巡らせていたのである。外来の待合室は午後でほとんど人影もなかった。コツコツ足音がして、月岡が入ってきた。思いっきりの笑みを浮かべていたのが、私には少し不安であったが、ドクターは診察室に入るように促した。私が室内に入ると、 
「どうなった?」 
と、宥めるような口調で聴いてきたのである。私はは、経緯を全て話し終えて、 
「これからどうすればいいのか分からないのですが・・・。」 
と、月岡の出方を観察するように目を合わせた。 「あなたの手術をしたのは自分であるから、あなたが望めばこれからも診させてもらうよ。」 
目を細めながら私の同意を求めてきたのであった。入院の時の回診時には決して見せないにこやかな表情にすこし安堵をした私は、この際にもう一度痛みの原因を聞こうと思った。 
「手術から二ヶ月は経っているのになぜ痛みが消えていかないのでしょうか?」 
すると、意外な答えが返ってきたのである。 
「もう一度検査をしてみようか!」 
検査?って、入院の時には何も言わなかったのに、今になってなぜ?と自問を頭の中で響かせて 「どんな検査なのですか?」 
月岡は、手術の際にも詳しい説明をしなかったのに、今度は非常なほど丁寧な説明をしてくれたのである。それは、神経根造影というもので、術後直ぐには出来ないこと、またこのくらいの時期くらいになれば神経根の状態が造影することで、癒着をしているかどうかがはっきりとすることを図でもって説明してくれたのである。この時から月岡ドクターとの腐れ縁が生み出される結果になることを私も月岡も全く想像もしていないのであった。私は痛みの原因が分かったならそれは治るはずだろうと考えたのであった。神経根造影検査は10月の初めに行われることになったのである。結果は神経根の癒着がはっきりと写し出されていた。月岡ドクターは、このまま何もしなければ痛みは取れないし、時間が経つともっと悪い状況になる恐れがあることを説明し、11月に二度目の神経根癒着剥離術が行われることになったのである。 
今度こそは元通りの体になるつもりで受けた術だった。 
私がICUから二日目に気付いたことがあった。それは、一度目のICUから移された個人室と明らかに違う個人部屋に居ることだった。冷蔵庫・電話・洗面室など個室でも特別室にいることだった。入院する時に自分が希望した覚えがないので、婦長が入って来たじに、それとなく聴いてみると、先生に尋ねて下さいと返答されたのである。先生の回診は午後3時頃が常であった。妻と話したが、妻も理由は訊いていないという。でも、特別室だと一日一万五千円は必要となり、とても支払える金額ではないのだ。妻とも心配していた時に、先生が入ってきて、真っ先にそのことを尋ねると、個室が開いていなくてここに入ってもらったのだと言った。
「費用は心配いらないよ!病院の都合でここに入ってもらったのだから個室代は取らないからね!」
「それで、どう痛みは?」
下肢の痛みは、楽にはなっていなかった。でも、それより今の体中に入れ込まれたチュウブの苦痛が大きかったので、そちらの方を訴えると、ドクターは笑ながら様態が安定すれば徐々にチュウブは取れるから二〜三日の辛抱だよと軽くかわして、手術跡の傷口を消毒する為に、私の体を横にナースに二人とで傾けた。術後の痛みは、経験しているが慣れることはなく、非常に苦痛で痛みは軽減するまでに一週間は要した。妻の話では、以前入っていた個室は開いているとの情報を得てきたのである。どうしてだろうか?特別室には十日間居て、その後、大部屋へ移されたのであった。以前はなかったリハビリを行うことになった。ドクターの話では、私の体は、癒着(ゆちゃく)しやすい体質だからとの説明で、足上げをリハビリの先生がドクターの指示のメニュー通りに行った。しかし、思ったような痛みが取れることは出来なくなっていたのだった。

その時にテレビでは昭和天皇陛下の様態が悪化し、下血がどれだけあり何CCの輸血をした等の報道が朝から晩まで流れていたのである。
時を同じくして、私は正月を病院で過ごすことになり、リハビリの甲斐もなく痛みが和らげることはなかった。そうして昭和天皇陛下崩御の報道がなされた。私は、そのニュースを聞きながら自分のこれからの治療をどうすべきかを思案していた。ドクターもこれ以上入院していても同じであるから、一端退院を薦められていたのである。
私の平成はこのようにして暗雲の垂れた中で始まったのである。以降ドクターが築港病院(現在は整形外科は廃科させているが)に転勤することが決まり、築港病院は私の仕事場から非常に近くにあり、痛みがひどい時には直ぐに処置をしてくれるとの、ドクターの言葉で自分も納得して築港病院へ転院することになり、仕事場に復帰しながら、痛みと戦いひどい痛みの時には病院へ痛めとめの注射と神経根ブロックを繰り返していた。効果はなかったのだが治療方法がないのだから仕方ないと自分に言い聞かせていたのだった。四日市築港病院に移って一ヶ月目に、ドクターから又手術の話が出始めたのである。そのころ職場は、大変な多忙な時期でもあった。県下に初めてのれセレモニーセンターの建築が始まっていて四月八日にはオープンという最中に手術で職場を離れることは出来ない時でもあったのだ。
ドクターにもその旨を伝えて、兎に角仕事が一段落するまで痛み止め治療を効果のない繰り返してもらうことにしたのだった。だが、自分の体が痛みの悲鳴を上げ、悪化の一途を進んでいることは会社の周りの仲間にも知れていたのある。少なくとも、自分の出来る仕事をこなすこととセレモニーの完成式典が無事済むまで自分を持ちこたえることに必死であった。仕事も式典の出席者にお礼の挨拶状を送り、祝い金のトータルを合わせることで一段落できる状態まで仕事は区切りがついたのである。
そして、その年の五月八日には入院をして三度目の手術へと進むのであるが、手術の効果は期待していないと言えた。でも、体を休める必要性がどうしても必要なことであることには違いなかった。本当のことをいえば、入院だけでよかったのかもしれない。ただ。ドクターが新しい癒着しないような治療ができたからという理由が手術へ同意することになるのだが、後から分かったことにそんな新しい治療などなかったのである。なぜなら、築港病院の整形外科にはもう一人医者がいて、村井というドクターであったが年齢的には若くはなかったが他の大学を出て改めて医学部に進んだという経歴の人で、根は正直だが腕は今一という評判のドクターが、ある時ふと自分が執刀したといったのである。つまり、私は、彼の腕を磨く為の手術材料に成っていた訳である。月岡ドクターにそのことを問いただすが、自分が執刀したのだと言い切って話は打ち切られたのである。そのことを、妻の澄江に話すと唖然として、ぶっきら棒に「あなたは人が良すぎるだけだわ!」と帰り支度をしたのであった。



第二章 入院患者の人々


 病院内の空間は、自由な社会と何の隔たりはないのだが、でも非日常な場所でもある。病院外来は、少なくと生まれてから一度はお世話になっていると思うが、入院病棟になるとそこからの空間は急に異質な場所に移ってしまう。病院関係者の人々は、何ら違和感をもつことはないかもしれないが普通の人にはそう感じるのだ。
まず、病棟のにおいだ。病院独特の消毒液とアルコールを合わせたのようなにおいがする。これは、お見舞いに行ったりすると誰もが感じることだと思うのだが、でもこれは各家庭でも色々違ったにおいがするのと同じことでもある。
そういう、病棟に入院すると、初めての方はどうしても慣れないことと、これからの治療への不安が入り混じって緊張するのだ。そんなに入院期間がかからない病気の場合、多くの人は個室を頼むケースが多いらしい。それは、他の人とのコミュニュケーションがわずらわしいことと、大部屋では病院によって違うだろうが四〜六人の人たちがカーテン一枚を隔てて過ごすことになるのだから、プライバシーがほとんどないといっていい状態なのである。また、病室には男女の区分はあるが年齢の区分はないために、どうしても幅広い年齢差が出てしまうのだ。そして、一番問題になるのに入院日数が長い人がいるケースが多い。現在は、病院も医療点数の関係から長期入院もある程度のところで退院か転院をさせると思うのだが、私が入院していた昭和六十三年〜平成五年頃は、病棟には長老と呼ばれる人がざらにいたのである。一番長い人は八年同じ病院の病棟にいるのだ。まさに、職員よりその長老の方が病院のアラカルト辞典と思う人がいるのだ。
このアラカルト辞典の人に聞くと、ドクターの経歴から看護士さんの性格から挙句の果てに私生活まで知っていることもある。だから、こういう人とうまくやれば、色々なことが分かるのだ。重宝する代わりに、いったんその人と揉め事をしていまうと病院中に自分のことをあることないこと全てを病院内にばら撒かれてしまう。用心用心なのだ。 というわけで、入院する時には多くの場合、入院する部屋の人に挨拶にそれぞれ何か贈るケースが多いのだ。一番多いのは、ちょっとしたお菓子で挨拶することが多いのだが、時にはタオルなどを配る人もいるのだ。 唯、要注意なのが派手にご挨拶する人ほど、周りのことに口やかましい人が多いのも事実である。

病院内の空間は、自由な社会と何の隔たりはないのだが、でも非日常な場所でもある。病院外来は、少なくと生まれてから一度はお世話になっていると思うが、入院病棟になるとそこからの空間は急に異質な場所に移ってしまう。病院関係者の人々は、何ら違和感をもつことはないかもしれないが普通の人にはそう感じるのだ。
まず、病棟のにおいだ。病院独特の消毒液とアルコールを合わせたのようなにおいがする。これは、お見舞いに行ったりすると誰もが感じることだと思うのだが、でもこれは各家庭でも色々違ったにおいがするのと同じことでもある。
そういう、病棟に入院すると、初めての方はどうしても慣れないことと、これからの治療への不安が入り混じって緊張するのだ。そんなに入院期間がかからない病気の場合、多くの人は個室を頼むケースが多いらしい。それは、他の人とのコミュニュケーションがわずらわしいことと、大部屋では病院によって違うだろうが四〜六人の人たちがカーテン一枚を隔てて過ごすことになるのだから、プライバシーがほとんどないといっていい状態なのである。また、病室には男女の区分はあるが年齢の区分はないために、どうしても幅広い年齢差が出てしまうのだ。そして、一番問題になるのに入院日数が長い人がいるケースが多い。現在は、病院も医療点数の関係から長期入院もある程度のところで退院か転院をさせると思うのだが、私が入院していた昭和六十三年〜平成五年頃は、病棟には長老と呼ばれる人がざらにいたのである。一番長い人は八年同じ病院の病棟にいるのだ。まさに、職員よりその長老の方が病院のアラカルト辞典と思う人がいるのだ。
このアラカルト辞典の人に聞くと、ドクターの経歴からナースの性格から挙句の果てに私生活まで知っていることもある。だから、こういう人とうまくやれば、色々なことが分かるのだ。重宝する代わりに、いったんその人と揉め事をしていまうと病院中に自分のことをあることないこと全てを病院内にばら撒かれてしまう。用心用心なのだ。
というわけで、入院する時には多くの場合、入院する部屋の人に挨拶にそれぞれ何か贈るケースが多いのだ。一番多いのは、ちょっとしたお菓子で挨拶することが多いのだが、時にはタオルなどを配る人もいるのだ。 唯、要注意なのが派手にご挨拶する人ほど、周りのことに口やかましい人が多いのも事実である。

私が最初に入院した病院は整形外科と外科の混合した病棟だったが結構若い人たちが多かった。もちろん老人の方も入院していたのだがその病院は、別棟にお年寄りは入院されていた。病棟は結構新しく感じた。入院して二〜三日は検査などで周りの入院患者の人と話をすることは余りなかったが、不思議と前から入院されている人は、何処が悪くて入院したのかが分かっているのだ。入院している人には新しく入ってくる人に関心があるらしいのだ。私の場合、検査が一段落した時に、ロビーに煙草を吸いに出た。最近は病院での喫煙など出来ることはないだろうが、当時は当たり前のようにロビーに喫煙場があったのだ。一人の私と同じくらいであろうか無精髭を生やしずんぐりした体形の男の人が、
「腰が悪いの?」
と無造作に聞いてきたのだ。でも、彼は少し鋭い目つきで話しかけてきたので、私も初対面の緊張もあって、
「えー!」
としか答えようがなかったが、急に、
「僕のこと覚えていない?」
と、尋ねられた。私の中でこれまで会った人を頭の中でトランプを切るように描いてみるが、どうも出て来ない。それで、
「いつかお会いしましたか?」
と、他人行儀に聞き返したのだ。
「高校の時、同じクラスの伊達だよ!」
「えーそうだったの」
と。答えてみるが、伊達と名乗られても思い出さないが、知らないなどといえる訳は出来ない。まぁーいつか思い出すだろうからと、その場を乗り切る為にも適当に答えをしていた。結局最後まで、伊達さんが自分と同じ高校の同級生であるかは思い出すことははかったのだ。
その彼も話を聞くと、腰が悪く椎間板ヘルニアだ言ったので、これまた、病気が同じだとこんなに親近感が沸くのかと思うくらい、親しい会話になるものだと感じた。ただ、伊達さんの場合は、椎間板ヘルニアのMRIの検査まではするが、それ以上の治療はことごとく断るのである。医者も、ブロック治療を薦めるのだが三ヶ月入院している間何も治療を受けることはなかった変な患者さんだった。ただ、牽引はするのだが、これも普通の人が仰向けに寝て15〜25kgをベッドに釣って腰を引っ張るのだが、彼の場合は、寝そべって牽引するのだ。ドクターも不思議がっていたが、本人がこの状態が一番いいと言い切るので、ドクターもそれ以上は何も言わないのであった。いつだったか伊達さんのやや疲れたという風貌でどっしりした姿の奥さんとのやり取りが偶然聞こえてきて、つまり入院保険が90日出るからそれまでは入院した方が好いといった会話だったので、子供が3人いる家族で上の子がまだ幼稚園に通っているくらいなので、事情から察するとなるほどこういう患者もいるのかと感心した。

椎間板ヘルニアの患者さんは伊達さんと私以外にも三人くらいいた。同時期にヘルニアの同士がこんなに集ることってあるのかと思うくらいであった。 その中でも、27歳の男性の患者さんは椎間板ヘルニアが仙骨にあるらしくドクターが回診の時に、手術の話になり、彼が仙骨の辺りの神経を切ると勃起不全になるのでしょと馬路にドクターに聞いていたのである。ドクターもよく勉強しているね!といいながらも、手術を勧めたが、彼は、万が一のことを考えるとどうしてもできないと断っていたのである。

伊達さんと同じく、入院していた国立で建築科専攻の大学院生の相田君とも親しくなったのだ。彼は背が高くがっちりとしていて静観な人に見えた。もちろん鼻筋が通っているので男前である。彼も、顎鬚をうっすらと生やしていた。彼はいつも短パンを履いているのだ。どうも病院の患者のスタイルではないのだ。でも、若いから動きやすい方イイのかもしれない。ただ、問題なのが、彼が時々立てひざをしていると、真正面から話してしると、彼の股間が丸見えになるのだ。かなり親しくなった時に、その玉袋が見えることを話した。でも、別に気になるようでもなく、まぁ男だからねぇ〜と落ち着いたものである。頭がいいとそういうところは、御構いないのかもしれないなぁ〜と私は思った。彼の場合は、エジプトの旅行の最中に事故をして右足を複雑骨折しエジプトで治療をしたのだが、帰国して治療後正座が出来なくなったらしい。それで、再度手術をしてリハビリをしているのだが、エジプトでの手術が適当で、こちらに帰って再手術しても骨折した場所の骨がなかなか再生出来ないらしく入院期間も半年ほどかかっていたのだ。手術してギプスが取れてから、彼の病室から聞こえてくるリハビリのうめき声が聞こえると可哀想だが頑張れと心から祈るばかりだった。そして、暫くすると彼はリハビリ室でリハビリの先生がドクターのメニュー通りに進めるを見ていると可哀想なくらい辛さがこちらに伝わってくるのだ。その時、整形外科の場合の手術とはリハビリを乗り越えないと、本当に完治しないものなのだと感じたものだ。相田君がエジプトの病院では、手術後丸裸で寝かされてして、みんなそれが当たり前のようだったと言っていたのだが、本当なのだろうか?今でも信じられないのだ。

また、同時期に入院してきたのが、二十歳くらいの古田君と女性の江見ちゃん(苗字は定かでない)だ彼らは膝の半月版を損傷し、古田君はスポーツマンタイプで高校の時から水泳をやっていたそうだ。会社のイベントのスポーツ大会に出てその時にアクシデントで怪我をしてこの病院に来たらいい。それも怪我をして三ヶ月も経ってからである。本人の話では、その間、膝の関節がぐらぐらして歩きにくかったらしいが、会社を休むとボーナス査定に響くからと我慢していたらしいが、入院する前から痛みが出てきて、父親が無理に病院連れてきたそうだ。その半月版損傷に加え靱帯も伸びていた。江見ちゃんは少しぽっちゃりした体形で少し小柄であったが笑うと笑顔が可愛いのである。恵美ちゃんもテニスをして怪我をしてこの病院で検査したら、半月版が損傷していることが分かったらしい。二人の手術は同じ時期行なわれたのである。私が入院して一番親しくしていたのがこの四人の人たちである。最初の入院で、自分の手術に関しては芳しくはなかったが、彼らが入れ暮れたので明るく過ごすことが出来たのだと思う。
江見ちゃんは、私が二度目の手術する時も入院は続いていて、聞いてみると彼女もその後椎間板ヘルニアと分かり、私が二度目の手術前に椎間板ヘルニアの手術をした。私は、自分のこともあって彼女には、手術は避けた方がいいよとアドバイスしたが、受け入れてもらえなかった。でも、彼女の場合には、手術して痛みが全く取れて成功しいた患者でもある。
もう一人、椎間板ヘルニアの手術をした50代の人も親しくなった。彼は、手術後、痛みが取れたものの痺れは取れないと私に打ち明けてくれたのだ。でも、私は彼らの話を聞いて自分も同じように痛みは取れるに違いないとその時点では感じ、望みを手術に託していたのである。
余談であるが、古田君と江見ちゃんは私が知らない間に結婚した。私の知っている入院患者同士がハッピーエンドになったケースであった。

入院患者も色々な人がいるのだが、普通の暮らしの中ではもっと怖いというイメージを持つ人といえば、やくざのお兄さん方である。でも、築港病院で知り合った人は、イメージとは全く異なっていたのである。中田という私より二〜三上の人で、最初の顔つきはきりっとして、頭を短髪に刈り上げてがっちりした体形の人だ。初めは、私が入院したのは、下肢の痛みの限界にある時期でもあったが、そもそもの入院は、40度の高熱が3日続き、どうしても体が通院出来ない状態になったことがそもそもの始まりなのだ。原因は入院して3日しても分からず解熱の注射を打つと38度くらいにはなるのだが、直ぐに40度になり自分でも原因が分からないことに苛立っていた時に、夜勤のナースさんが睾丸は腫れていないと、急に聞いてきたのだ。自分の物ながら全く気がつかなかったのだが、言われて睾丸を触ってみるとなんといつもの三倍以上になっているのだ。
「あのー、凄い状態になっているのですが・・・・」
ナースさんは躊躇う(ためらう)こともなく、私のパンツまで下げて
「あ〜やっぱりね!」
というと、直ぐに出ていった。そして、暫くすると当直のドクターと一緒に入ってきて、既に自分でパンツもパジャマも元通りに上げたのを、ドクターも躊躇うことなくパンツを下げて、膨れ上がった睾丸を触った。人に自分の物をまじまじと見られる恥ずかしさと言ったらもう言葉もないのだ。私の頭は、恥ずかしさと少しは下げるからと断ってもいんじゃないかなどと怒りすら覚えたのである。
ドクターは、血液検査をするようにナースに伝えて、私に恐らくおたふく風邪をしたことはないかと尋ねた。自分にも親からおたふく風邪をしたことは聞かされていなかったので、
「たぶんかかったことはないです!」
と伝えた。それより、早くパンツを上げたいと思っていたのが本音である。ドクターは、私の顔を振れて少し耳下腺が腫れているから間違いないと思うと言って、今から点滴をするから熱は次第に落ち着くよというなり、部屋を後にした。夜勤のナースさんの機転の利いた判断で原因が分かりやっと安心したが、ナースは直ぐ病室に入ってきて点滴の前に、睾丸を冷やすようにと氷嚢を玉々の周りに置いたのである。それから、五日後には平熱に戻り睾丸も普通の大きさに戻ったのだ。
そんな入院の為、中田さんとの出会いは随分としてからで、最初に顔をあわせたのは、トイレに入っていると中田さんが、横に立ち小便をしながら、何処が悪いのっと私のか顔を眺めて聴いてきたのだ。まさか、おたふく風邪とも言いにくく私は、腰が悪いのでとなんとなくその場から去ったのである。その後、病室の廊下の小さな窓際に小振りの机と可也使い古したソファがあり、そこで中田さんともう一人の男性がよく将棋をさしている光景を目にしていた。私も熱が下がり、月岡ドクターが入院して10日後にやっと現れて、本題の下肢痛のことで手術の話が本格的に進めることになった時期に中田さんと漸く世間話をするくらいの間柄にはなっていたのだ。中田さんは、どうやら仕事場で足の踵を粉砕骨折して手術後リハビリしているとのことだった。いつものように一人の男性と将棋を指していて、私もその横で見ていると、中田さんが腕をめくった時に、刺青が見えたのだ。私は、まじまじと見たのではないが、その表情が中田さんも気づいたのだろう。急に中田さんが、自分の経歴を言ったのである。元はやくざであったが、今はとび職についていること。刺青は若気の至りで背中まで彫ってあること。今でも組員との付き合いがあることなどを自ら話したのであった。私も、それまでにある程度話が出来る間柄になっていたので、さほど驚くことはなかった。中田さん自体言葉も丁寧な話し方をしていたので、芯はやさしい人なのだと私は自分に言い聞かせていたのである。そうして、私は手術をして個室に二週間ほどいたのだが、中田さんは時々顔を出してくれて色々な雑誌を置いていってくれたのだ。色々な雑誌の中にはエロっぽいものが多かったのだが。手術から一ヶ月すると私も多少杖をつきながら歩くことが出来るようになった。もう世間は、春からから初夏に変わり始めていた頃、少し涼しい風が流れてまぶしい日差しの中で中田さんが、ラーメンを外に食べに行かないかと誘われた。自分が何処まで歩けるか分からないからと躊躇っていると、タクシーならいいだろうと言ってどうしても行くことを勧めるので、中田さんのご機嫌が悪くなるのを少し避けたいという気持が働き、ついにタクシーで外に出たのである。もちろん、ドクターの許可などとっていないのである。私も、久しぶりの外の景色が輝いて見えたが、木の葉は若葉から、青々としたの木々を眺めて気持は良かったのだが、少しため息が出た。中田さんは、そのため息が聞こえたのか、
「どうした?痛むのか?」
と、自分を気遣ってくれたのである。私は、今回の手術後も以前より良くなっていないことを告げると、
「まぁ焦るなよ!」
と励ましてくれたのだ。10分くらい走るとラーメン屋に着いた。普通の味だが、今回の病院の食事が余りにもヒドイ状況だったので、久しぶりに味わって食べた。一時話をして、病院に戻ろうとして、タクシーを呼ぶように店主に中田さんが伝えたが、余りにも近いからタクシーは来ないと店主が告げると、中田さんは今まで見た表情とは変わって険しい顔で怒り出したのである。私は、心の中で簸るむだけだったが、けんかになる前に中田さんに、歩いて帰ろうというと中田さんも渋々店を出たのだった。きっと先怒ったのも、私の体を気遣ったくれたのだろうと思っていた。100m歩くと私は、痛みと疲れで少し休んだ。中田さんは、自分が連れ出したことに随分謝ってくれた。私は、そんなことないよといいながら、歩いたが可也限界だった。その様子から、中田さんがおんぶをしてくれると言うのだ。中田さんもまだまだ足の踵のリハビリの最中なのに、と断るもその内に言葉が荒くなってきた。私は、悪いと思いながらも中田さんの言葉に従いおんぶしてもらったのだ。回りの人が見たらどんな風に見るのだろうかと、思って中田さんの背中に乗り中田さんの肩をしがみついていたのだった。1Km弱を背負ってもらって病院にたどり着いた。お互い、疲れきったのでそれぞれの病室に何も言わずに入って休んだのだった。
それから一ヶ月すると中田さんの退院日が近づいた。また、中田さんが自分の退院祝いに町のスナックに行こうと誘われた。それまで、随分と親しく付き合ったいたので、断るのも悪いからと承諾した。これもまた、ドクターの許可など取ってなかった。外はもう夏である。蒸し暑い夕方にタクシーを使って外に出た。町の中心に近づくと、遠ざかっていた慌ただしい時間との遭遇に少し躊躇いが出た。中田さんが店に行く前に、風呂に行こうと言い出した。サウナの方が言いと、私がいうと、中田さんが自分は刺青があるから入れないと言った。その時初めて、刺青があるとサウナには入れないことを知ったのである。町の風呂場に入った。中田さんの刺青の全貌がその時初めて見ることが出来たのだ。お尻から背中と腕までそれは綺麗というのか素晴らしいと表現するのかが難しかった。こちらの背中には、手術の傷口が醜く残っているのである。中田さんは、自分の刺青より、私の背中の傷口に関心があるらしく、まじまじと眺めていた。そんな二人が風呂に入るのだから、周りの人は少し遠ざかっていたのだった。風呂を出て、さっぱりした後、スナック幸子に入った。どうやら中田さんの彼女であるママさんが持成しをしてくれた。私も、酒が入り、気が大きくなったのか今度は自分の知っている店をと勧めてお互いの今後の検討を祝したのである。深夜に病院に戻るも、ナースに見つかり大目玉をもらった。それから、暫くして、中田さんは病院を退院していったのだ。


第三章 教授回診

 私がその愛知の藤田大学病院に受診したのは、築港病院の月岡ドクターの紹介状と勤めていた会社の社長が大学の事務部長を同窓生として知っていた為連絡を既に大学に手配してもらっていたので、初診の時は大学の事務部長の米田さんもわざわざ教授に私が受診する時に立ち会ってもらえた事が、入院までの運びをスムーズに行うことが出来たのである。本来ならば私のような他の病院での手術をした患者の場合、生命に関わらないようなケースでは半年から一年近くベッドの空きを待たなくてならないのが常らしい。
吉倉教授は、五十後半の年齢の方だが言葉がはっきりといわれる先生であった。今まで見たこともないコンピューターシステムでのカルテを前に先生は私のこれまでの受けてきたオペの記録とか今後も検査日程を淡々と入力していったのである。この先生は、慶応大学出身で、日本でも脊髄の専門では5本の指に入る名医と“医者が選ぶ病院の本”にそう紹介されていたので、私としてはもっと偉ぶる先生かとおもったが話してみるととても気さくな感じの教授であった。
私は、真夏の燦燦と太陽が照りつける八月十四日に大学を訪れて、九月十一日には入院の運びになったのである。吉倉教授の脊椎専門グループで八谷ドクターが主治医となった。全ての説明は、主治医の八谷ドクターが行った。

この大学病院は非常に大きい建造物の中で出来ていて、私学ということもあってか病院内は、何の不自由も感じさせなかった。地下には小さな町にあるスーパーマーケットくらいの雑貨売り場があり、食事をする場所も広く、喫茶から床屋など暮らすことには全く問題はなかった。外来の待合室のロビーは広く、ちょっとしたホテルのようにも思えるほど立派に感じた。私の生まれが田舎であり、これまでの病院しか知らないためのカルチャーショックだったのかもしれない。きっと東京などの大きな病院はもっと凄いのだろうと思えるのである。ただ、病を持っている人には少し広すぎて、やや疲れ気味に感じた。何もかもが、専門科させていて誰かに聞かないと行きたい場所に着かないことも度々あったのだ。病棟も広く、実際何室あったのか今でも分からないのだ。兎に角、ナースステーションを覚えて、そこを起点に自分の病室を見つけないと迷ってしまうくらいであった。病棟のロビーも広く、優雅な感じである。私の入院した病室は十人が入っていた。入院をした日に、大学の事務部長が訪れて、りっぱなアートフラーワーを届けてくれたのだ。周りの人は、私が、特別の人のように最初は誤解しているようだった。どこかの、偉い人の息子か・大学関係者のだと勘違いをしていたようだった。直ぐに誤解は解けたのだが・・・・。

これまで、何度も入院は経験しているのだが、それぞれの病院によって何らかの違いはある。まずは、食事の出る時間帯が全く異なる。朝・昼は大体同じなのだが、夕飯は違いが大きい。午後四時半からで六時である。四時半の病院は、夕飯を食べるともう寝る頃には腹が空いてしまうのだ。また、体を清潔にするため、お風呂の入る日もそれぞれ違っていた。自分で体が自由に動ける人は、入浴がでいるのだが、病院によっては周に二度しか入れないところもあったのだ。体が自由にならない人は、温かな濡れタオルを渡してくれるのだが、毎日のところと、一日置きのところがあった。この大学病院では、夕飯は五時半からでメニューもしっかりとした献立で味付けもおいしいかった。
風呂は、浴槽とシャワー室があった。午前中に濡れタオルも毎日配られた。一番の違いは、大学の病院なので、研修の看護士さんが結構身の回りを気遣ってくれたことが有難かった。

入院をして一週間目の九月十九日火曜日が初めての教授回診日であった。私の病室には関節・リュウマチ・脊髄・腫瘍の人たちが入院していて、其々専門のチームが回診時は週ごとに違っていた。私の脊髄の教授回診は月に一回か二回が主だった。最初の回診の時は、なんだか非常に緊張するのだ。まず、午前中にナースが今日の予定を伝えてくれる。午後から教授回診があるから必ず病室にいて下さいね!と伝えてくれる。午後に入ると、自分の主治医と研修医がまず体の状況を聞きに来てくれる。それは、細かく聞かれるのだ。それは後で分かるのだが、教授が各チームで回る時に患者が答えるより前に、主治医か研修医が答えるということなのだ。いよいよ、教授回診が始まった。まず、先に看護士が私の周りを小奇麗に片付け、ベッドの布団も綺麗の折って自分は横になって寝ている状態にしておいてくれるのだ。ただ、部屋の中には、自分の受け持ちでない患者には全く関係がないので、それぞれが自分のしたことをしているが、テレビは、各部屋に一台あるのだが、その時はオフにする。さて、いよいよ教授が病室に入って来ると、部屋は静かになり、教授の後ろに見知らぬドクターとそして八谷主治医と研修医四人婦長とナースが二名着いて回ってきた。計九名の大名行列である。その時は客員ドクターがいた。そして、私の右横に教授が立ちその横に客員ドクターがいて、左側に主治医と研修医がベッドの周りを取り囲むのだ。私が答えたのは2回だけである。教授が痛みはどう?といったので、
「かわらないです!」というと、教授が笑顔で「そう」というと隣の客員ドクターに私のこれまでの経過を説明して、「この患者さんは多重術の方でね!内を頼ってきたのだよね!」と言って、月岡が持たせてくれた紹介状と私の過去のミエロとMRI検査の写真を見せて・・・・・・・専門用語と英語かドイツ語か分からない言葉で会話をしていた。時折、主治医に対して私の今後の予定を聞いていたのだが、私は寝ているだけで、その上で言葉がやりとりされていたのだ。研修医は其々メモを一生懸命にとっているのである。そして教授が私に、これからの検査説明のことは聞いていると問いかけてきたので、
「大体は・・・・!」
と、いうだけで後は主治医が口をだして、詳細は今夜にでももう一度話しますからと遮った。教授は、ほーという感じで、手術はこちらに任してくださいね!と言った後で、
「八谷君検査の全ては任せてあるからね!後はその検査結果でどうするか又話しよう・・・。」
と言って出て行った。最初の教授回診は十分くらいであった。とても、疲れた回診だと私は思っていた。その時は、まだ病院の仕来りもわかっていないことばかりの時期でもあった。横にいた五十過ぎのオジサンが時々色々な話をしてくれて、少しずつこの病院の過ごし方が分かっていくのであった。  

その夜に八谷主治医が病室にはいってきて、私が持ってきた回生病院のMRIの写真が鮮明に映し出されていなから、もう一度取り直すこと明日ミエロ検査をして、十月に入ってからディスコ検査とCT検査とする予定であることを告げた。それとこれまでの手術に関して少し情報がほしいからと言うことで、色々質問を受けたのである。
二回目の教授回診は十月五日のであった。既に八谷ドクターの検査結果が出てきていたのである。前回の教授回診のメンバー以外に講師の仲居ドクターが加わっていたもである。やはり、私は、寝た状態の中、体の上で会話が進んでいたのである。教授が詳しいことは八谷が説明するけど、この検査でやはり前方固定のオペがベストな方法だと決ったことを私に告げた。それで進めていいのかと訪ねられて、
「はい、宜しくお願いします!」
と、頭を下げるしか、答えようがなかった。手術日を十月十九日からと日取りまで決っていたのである。教授は少し今までの手術からすると術後はきついかもしれないが、辛抱するようにと強く私の目を見て語り掛けたので、どんな手術なのか不安が過ぎった。そして、教授が私の前から去ろうとする時に、ふともう一度私の横に来て、
「手術の執刀は仲居君にお願いしているからね!私は、手術の初めからは立ち会えないが、途中から入るから心配しなくていいよ・・・。」
と私の肩を撫でて、
「輸血が必要になるから、最近は自己輸血が安全だからね!貧血ないよね!」
といいながら私の側を離れていったのである。講師の仲居先生が後に残って、自分が執刀するので宜しくと挨拶され後で、主治医と一緒に手術の詳しい説明を知ることを伝えて出ていった。

その翌日に妻の澄江と一緒に別部屋に呼ばれて、オペの詳細と必要性について詳しく話してくれたのである。まず、MRIの画像からも椎間板が痛んでいる為椎間版を2箇所取り除いて左右の骨盤から骨を切りそれを移植させ、ボルトで締めると私の脊柱が安静するからとのことだった。私の痛みが取れるのかが一番の心配だったので、尋ねたがそれは結果を見ないと分からないと返事が帰ってきた。仲居先生は、ミエロ・ディスコ検査からも脊柱と神経根が狭くなっているが、脊柱が安定すれば痛みの緩和も期待は可能かもしれないと付け加えてくれた。私は、少し望みが持てると安心できた。主治医が、術後四週間はベッドから起きられないこと、手術は腹から切るし、両骨盤にもメスが入るから痛みは可也ひどいかもしれないが痛みがひどければそれなりの痛み止めを使うと言った。また、二週間後には体をギプスに巻くのでそうすれば、多少ベッドの上でナースの手を借りれば、横向きになれるから少しは楽になると安堵感を与えてくれたのだった。それと、オペの時間は二椎間板を一挙にするため七時間以上は掛かると継げたのである。妻澄江は付き添いが必要なのか聞いていたが、完全介護の病院なので必要ないことを聞くと安堵していた。彼女は、確かに楽観的なところは持ち合わせていたが、こうも夫が手術ばかりの日々を送っていることに焦りと不安が表情に出ていたのである。手術などの費用は、労災から出るが、会社の給料ははいらないのだ。休業補償給付と色々な方からのお見舞い金が家計の収入であったのだ。彼女の気持を察するには、私はまだ若すぎたのか自分の痛みのなんとか取り除くことばかり考えていたのが事実であった。
オペ説明から手術の日までは手術に必要な検査とか自己輸血の採取などであっという間に過ぎていったのである。その術後の痛みは、想像を超えたものであった。

その当時、私が手術を繰り返していることに不安と怒りを持っていた妻も藤田保健衛生大学病院に検査入院を兼ねて病院をかわる事に決ったことに関しては、これまでとは違って抵抗無く承諾してくれたのだ。もちろん手術が前提であったならもっと違った反応があったに違いない。そもそも、妻の実家は名古屋にあったので彼女からすると実家に行く都合も良かったのかもしれない。そもそも、私たちの結婚依頼、妻は一が月に一度くらいの割合で実家に一週間くらいは帰っていたのだった。しかし、長男の幸利が保育園に入ってからは妻もそうそう実家に戻れなくなっていたのであった。今回の大学病院に転院が決るまで、通院している間名古屋の実家には随分お世話になっていたのだ。長男の幸利も年中組になって漸く保育園に慣れてきた頃で、私が入院することが決ると、子供のことで意見が異なることになった。私は、入院して退院するまで子供たちを名古屋の実家で見てもらい、妻も名古屋に戻って時々私の病院に来ることを伝えたのだが、妻の主張は以外なものであった。下の娘の遥は三歳であったので名古屋の実家にいることは同意見だったが、長男に関しては、保育園を休ませることを妻は反対したのである。私は、妻が私の母とうまく過ごして行く訳がないことは重々承知していたので、この機会に少しでも自分が家を離れている間にトラブルが生じない方が良いと思って実家で暮らすことを勧めたのだ。しかし、妻から言わせるとそれだけ考えているのなら、これまでの入院の時にも考えて行動してほしかったということを言われたのである。その言葉は、もっともな言い分で私は返す言葉も見つからなかったのだった。ということで、私が大学病院に入院している間は、娘は名古屋の実家でお世話になり、妻と長男は私の実家で暮らし、長男が休みの時は妻も長男も名古屋に来ることになったのである。私は、女性は母になると随分と大人的考えになるものだと思うのと同時に、自分が家庭を持って、子供も出来ているのに全く成長していないことが恥かしく思えたのである。


第四章 赤裸々

手術の当日になると、朝から忙しいかった。手術は午後の一時からの予定であったが、それまでに済ませておかなければならないことが多くあったのだ。病室の私のベッドのカーテンが締め切られた。その時は中年のナースさんだった。いよいよかと自分に言い聞かせていた。まずは、手術をする場所の無駄毛の処理である。つまり、陰毛を全て剃らなくてはならないのだ。 私は、盲腸の手術を中学1年の時にしたが、その時は体が晩熟でチン毛はまだ生えていなかった為、今回が初めて剃られることになる。出来れば、おばさん看護士が来てほしかった。なぜなら、万が一反応することが一番は恥ずかしいと考えたのだが、なんと研修の若いナースさんが来られたのである。看護士さんからすれば、常時のことでなんのためらいも感じさせず、薄手のビニール手袋をして、胸のから足先まで温かな濡れタオルを私の体にかけて、胸から床屋さんが使うような泡立ちのよい石鹸泡をつけて剃り始めた。
「胸も剃らないといけないの?」
と尋ねると、研修のナースは先輩から書いてもらった図を見せて「胸から足先までとなっているから・・・・」といって仕事に入った。私は、何も話さないと余計に伐が悪く感じたので、くだらない話をしていた。まじめなナース見習いは、手術の際に不潔な場所を残して置くと、先輩からしかられますから・・・・などと笑顔を見せることなくもくもくと剃っていった。そして、私の物を触る時に、小さな声で
「失礼します!」
といって、クタリと成った逸物を右の左にと動かして見事に剃ってしまったのだ。私の場合は、足の毛は少ない方なので、剃りよかったようで早く終わった。これで終わりだなと思ったら、うつぶせになって下さいというので 「えー今度はどこを剃るの?」
と尋ねると、背中からお尻までですとはっきり答えた。お尻といても肛門まで、全て剃るのである。ナースが終わりましたので、全部ぬれタオルで拭きますと言ったが、剃られて丸出しなった自分の物をこれ以上見られたくなかった。
「後は、自分で拭くからいいよ。」
といってナースをカーテンの外に出した。あちらこちらから刃で切った後からの傷でうっすらと血が出ていた。それより、陰部の毛がないというのは、男としてみてもグロテスクに見えるものだ。
それがやっと終えると、今度は別のナースが浣腸をするからとお尻に大きな注入器で浣腸されたのである。もうSM状態の日だと内心は思っていた。暫くすると、お腹がゴロゴロ音を鳴らし始めたしたのでナースから三十分は我慢して下さいといわれたが、このままでは危ないと思いトイレの中に駆け込んだ。それからまもなく、すると妻と姉夫婦が顔を見せてくれた。一時からの予定が前の方のオペが伸びたようで二時からということになった。それでも、十二時には点滴と膀胱に管を入れたのである。結局に二時前にオペ室に運び込まれて、大きな大学病院では、手術場の患者の受け渡しも寝ている台から手術台へは自動的に移す仕組みになっていたのだ。いくつものオペ場があることは分かったが自分がどこに入るのか緊張が増してきていた。手術室に入る頃には、病室で打った注射を効いてきたのか、ぼんやりとした状況のなかで、ドクターが口元にマスクを近づけて大きく息を吸ってね!と言って私の名前を呼んでいたが、次第に光の中に落ちていった。

私の意識が何とか取り戻したのは、術後室という個室に移ってからであった。執刀医の仲居先生の声がかすかに私の耳に飛び込んできた。
「田村さん聞こえますか?もう手術終わりましたよ!」
と何度も何度も繰り返し聞こえてきた。最初は、遠くで誰かが叫んでいるように思えたが、暫くすると、はっきりと聞こえてきたのである。
仲居先生が咳払いする音まではっきりしてきた。
「手を握り返してください。」

私は、言われるがままに誰の手かも分からなかったが、握った。そんなに強く握ることは出来ないものの、その手の温もりは感じることが出来た。次は、「足を触るから分かったら首を振って下さい!」というので、なんとなく触られているように思えたので首を動かそうとした。でも、術後の苦痛が一挙に体中に広がってきたのである。首を振ることも苦痛に感じた。目からはしきりに涙が流れてくる。そうすると、誰かが、涙をふき取ってくれた。ナースであろうか?女性の声で、「苦しいわよね・・・」と私にそれとなく同情してくれる人がいることが、なぜか嬉しかった。仲居先生が、「足の触れる感覚が分かったら、瞬きして下さい!」と少し大きな声で言っている。私は、二回ほど瞬きをした。私の意識も可也戻りつつあった。今何時か知りたかった。でも、口にバッカンという人工呼吸器が入っている為声を出すことが出来ないのだ。私は、後から分かったのだが、二十二時頃に戻ったらしい。つまり、十時間くらいの手術をしたことになる。仲居先生が、今夜は苦しいだろうけど、明日になったら少しは楽になるから、痛み止めと少し眠るようにするからといってナースに何か指示を出していた。仲居先生は、今夜は僕が夜中いるから心配しないでと言ってどこか行ったようだ。ナースも、「私が今夜はずーといるかね」と優しい声を返してくれた。程なくすると、私は意識が少し朦朧(もうろう)となってきた。左腕に自動の血圧計がついているのだろう定期的に腕を絞める蹴るのと同じく閉める蹴る音が私の耳入りながらその夜は、眠りに落ちた。
そして、漸くはっきりとした意識に戻った私は、まず口元の息苦しさから人口呼吸器から開放されたかったのだ。その願いは、朝一番に主治医の八谷ドクターが行ってくれた。八谷ドクターの話では、手術は腹部の方から内蔵を除けて大動脈を傷つけないようにしたが、私の大動脈の位置が人より違っていたため、予定していたより時間はかかったものの骨の移植もうまくいったとのことだ。後は、移植した骨が順調に固定出来れば今回の手術は成功したと言えるだろうと言った。私は少し不安になり、移植した骨が接合出来なければどうなるのか聞いた。すると八谷ドクターは笑いながらその時は再手術になるだろうと他人事のように話された。これまでの手術がうまくいっていない私には笑い事ではすまないことだった。いつ頃が接合できたのかが分かるのか、しつこく尋ねると約四週間との説明をし、今日一杯は内臓を事態は触れてはいないが、その内臓を取り巻く膜を触れているので、今日一日は何も食べることも出来ないと私に伝えた。午後になると元居た病室に戻った。少しベッドが揺れるだけで、骨盤の痛みが走るのだある。これ以降2週間は全く自分で身動きできない状態になるのだった。その夕刻に執刀医の仲居先生が傷口の消毒に入って来られた。私は、頭は少し持ち上げる力が戻っていたので、自分の傷口を見ることが出来た。それは、自分が予想していたより大きい傷口で、へその上からペニスの根元まで縫い目があり、左右の骨盤のところにも七〜八Cmの傷口があった。それぞれの傷口からチュウブが出てまだ鮮明な血液が流れ出していた。口には酸素マスクがあって鼻からもチュウブが入り、尿道にもチュウブが出ているので、もう以前の手術をした経験を超えた領域の体になっていたのである。仲居先生は、苦しいだろうけど、三日くらいから少しは楽になることを伝えてくれた。私は、喉が渇いたことを伝えたが、明日の朝に少し水を飲んでから調子を診ようと言ったが、私はかなり口が渇くというとナースに脱脂綿で口元を濡らす程度は許しをくれた。私にとってその言葉は有難かった。
ナースが暫くすると口元を濡れたガーゼで拭ってくれた。その少しの水滴が生きる喜びの最低限の力になることをその時知ったのだ。

これまでの手術とは全く異なる点で、これまで経験したこことのない時間を過ごすことになった。完全介護は、私の気持を開放してくれた部分と自分を惨めにした分をはっきりさせた。食事に関しては、有難いことに一週間は三度の食事を、ナースと研修の看護士の方が親切にしてくれた。ただ、自分のペースで食事が出来ないことが、看護士の人によって違った。そのため、一週間後からは自分で寝ながら何とか工夫して食べることにした。人に甘えることも大切だけれど、自分で出来ることを見つけていかないと前に進めないような気がしていた。ただ、自分で出来ないことは、体が動けない以上できないことは山のようにあった。それは不自由という名の言葉になってしまう。恐らく、体が自由に出来ない人は常にこのことを感じているのだろうと思えた。まず、体を毎日濡れタオルで拭いてくれるのだが、若い女性に見られることに抵抗はあった。かろうじて、手は使えるのであるが、頭が少し持ち上がるだけだったので全く無抵抗なまま体を預ける形になる。健全な男なら反応するだろうが、最初の一週間は痛みの為、なんの問題も生じなかった。
一週間すると、男性の看護士が私に付くことになった。今では、男性の看護士も多くなったが、当時の看護士では私は始めての経験であった。体形のがっちりした人の良さそうな好青年ではあった。男性ということで、私事態も結構安心した部分もあったのだが、手術から十日目にハプニングが起きたのである。いつも道理に、濡れタオルで体を拭いてもらっていたのだが、彼が私の下の方を拭いているときに、自分でも頭が真っ白になった。私の物が反応してしまったのである。彼も、びっくりした表情になった。私も困った表情になったのだ。頭と一物との全くことなった状況に言葉も出ない。彼も汗が流れだしていた。カーテンで仕切られた一角の空気が変に緊張感で余計に静まり返った。
普通なら古手のナースならピシリと言葉を出して笑って過ごすことは、私のベッドの前の学生さんが同じように尿道管のカテーテルを交換する際に勃起していまい、パッシと殴って名に考えているのと怒鳴られたことを聴いた。しかし、この場の雰囲気は全く違っていた。私は、自分でいうのもおかしいが、人よりは小ぶりだと思っているから・・・・・この看護士小さいなぁと思っているのだろうと頭によぎったが、私からそんなことを言える雰囲気でもない。彼は自分の仕事をするだけだという感じで、汗をたらたら流し私の一物を拭いていたのだった。これが、一番の私の恥ずかしいハプニングであった。その翌日からは、綺麗に拭くことは出来なかったが、自分で拭くからと彼に断った。今でも、なぜ反応したのか分からない。それと、問題なのは大便をするときに、彼の場合終わるまで、私の側にいることだった。確かに寝て大便をするには、踏ん張ることが出来ないから容易ではないのだ。かといって紙おむつにするのには抵抗があったので、寝ながら出来るオマルをけつの下に入れてもらうのだが、なかなか出て来ない。ナースの場合は、それでも仕事が色々あるから私は時間をかけて用を済ますのであったが、彼は研修ということもあって腕を貸してもらって大便をすることになった。あの一件以来、もう恥ずかしいことはなかったが、真正面に彼が立って腕を出して私の踏ん張りを手伝ってもらうのだから、彼から見ると真正面に私の肛門と一物が見えるわけで、そこに大便が出てくるところまで見られることになる。でも、もうその時は、自分は犬でも猫でもなんでもいいから動物になったと思うことにした。要するに、出したいものを出さないと、お腹が張って逆に又浣腸などと面倒なことになってしまうのだから・・・・・・!

ベッドの上でもっと辛いことは、手術後すぐから両足を包帯でキツクくるくる巻きに足首から腿の上までフラン・ケンシュタインのようになっていることだ。これは、私の手術が大動脈を動かしていることから血栓防止の為の処置らしいのだが、これがあるために足が蒸れて痒いのであった。手が届かないので、時々ナースとか研修看護士に掻いてもらった。それも、当初の予定よりは遅くなったが二週目に包帯と尿道管は取れることができた。それから、五日後ギプスを体に巻くのだが、これも普通の人なら恥らうことを、患者であるが為全くもの的な扱いで処置されるのだ。まず、病室から運ばれて整形外科のギプスの型取り室に入るのだが、私の場合は全く体を動かすことが禁じられているので、ドクター(研修医も含む)四名と看護士例の男性看護士も入り四人計8人の人が、ギプスの型取り室に入るなり、私は真っ裸にされ、そして8人の人が担ぎ上げるのある。主治医の八谷ドクターは絶対に体を捻じることや衝撃を与えるなと大きな声で怒鳴った。私は、素っ裸で、両足は30度くらい開けて持ち上げられていたのである。もうこうなると一物が反応できる状態ではないのだ。きっと映画での撮影なんかでもスタッフが大勢いる中でのエロチックな場面では、反応出来ないと聞いたことがあるが、今の状態はSMプレーに似ているが、こんなに大勢の中では、自分の精神は散漫になる。ギプスの専門の先生がまず体にラップを巻きつけてその上に綿のようなクッション材を巻きつけて、石膏の付いたギプスを胸から初め腹まわり胴回りとして左足の膝上までギプスで巻きつけたのである。足を上げて人は全て男の人たちで、頭とかからだの思い方にナースがいた。もちろん足の方だと、私の下半身が丸見えになるからそうなったのではないだろうか?ギプスを蒔かれると、相変わらず、ベッド上ではあるが、自分で横の手すりを持って、体を横向きに変えることが出来るのが、少し自由になれた気がした。

妻の澄江は、毎週土曜日か日曜日に病院に顔を出した。一人で来ることもあれば子供を連れて来る事があった。子供たちは、いつものように病室に入って暫くは余所余所しくしているのである。長男の幸利は、私が入院している時間が長いので、前の病院はどうだったとか今回の病院は大きくて綺麗だとか自分なりの感想を言えるまで成長していた。妻も、私が知らない子供たちの様子をそれとなく知らせてくれるのであった。私が心配している私の母との件に関してはあえて触れないようにしていた。なにか問題があれば妻の方から話すだろうと思っていたのである。ギプスが蒔きかえられて楽になった頃、やはり子供たちと病院にやってきた。私の気分も良かったので、妻も明るい様子であった。いつもより長く病院にいた為、二人の子供が私の横で寝てしまった。もう夕刻になっていたのだが・・・・。私は久しぶりに子供たちの寝顔と子供たちの臭いを嗅ぐことが出来て満足出来たのであった。子供たちは一時間半ほど眠ると、妻も帰る時間が気になるのだろう子供たちを無理に起こして、病室を後にして行った。少し、妻が疲れているのかもしれないなぁと申し訳ない気持でベッドの上から見送ったのである。


第五章 ため息吐息

その頃の私は、これだけの手術をしたのだからこれからは以前のような健康な体に戻れるという何の根拠もなかったが、心はうきうきし気分で過ごしていた。また、そうじゃなければあの苦痛な日々を送れることは出来なかっただろう。ギプスを胴体に蒔きつけて一週間から漸く、私は歩行許可が出た。歩行が出来るということは、私が心配していた骨の移植がうまくいったという証拠なのである。にもかかわらず、私は、歩行器をナースに持って来て貰いサポートしてもらって歩く練習をするはずだったのだが、一日目には歩行器に立つ事が出来なかった。立つと今まで以上の異常な激痛が両下肢に激痛が走るのである。そしてギプスの蒔いた腰骨にも痛みが走った。ナースもドクターからの指示のリハビリが出来ないことに心配してくれた。夕刻になって主治医の八谷ドクターが、やってきて
「今日歩くこと出来なかったって報告もらったけど・・・・どう何処がどう痛むの?」
と可也心配げに聞いてきた。骨盤の痛みは、ギプスの当たりが悪いのだからその部分を切って開放すれば直るからと言って、早速とギプスを電気カッターで腰骨部分に穴を開けてくれた。両下肢は、かなり鬱血していてむくみもひどかった。ドクターは、血栓予防したけど今はその血液の循環が悪くなっている為で、少しずつ良くなって痛みも緩和出来るだろうと言った。ただ、痛みがひどくても、歩く練習をしないと前には進めないからと強くリハビリをすることを勧めてその場を後にしたのである。ドクターの言葉を信じ、三日間は歩けることはなかったが、歩行器に捉り立ちを痛みに大汗を流し堪えてなんとか立てるまでにはなった。その頃、私のオペと同じ頃に、病名は異なるものの手術内容がよく似た女性の患者さんがいて、私のところに励ましに来てくれていた。彼女は、小澤という私より一回り上の方で静岡県浜松から来ている患者で、仕事はナースをしている人であった。病気は椎間板すべり症で、私と同じように一箇所の椎間板を移植していた。で、彼女の話では、ギプスをつけてから歩行は全て順調に言ったと聞かされ、私は少し焦りが出始めていたのである。今回も人と異なる経過を追っていることになるのだ。ただ、小澤さんは、ナースの立場から話してくれて病気も違うし当然し手術内容も違うのだから焦ることないわと優しい言葉で励ましてくれた。その後も彼女から色々教えてもらうことなった。私の師匠といえる人になる。

それから、二週間は百メートルを歩くことがやっとであった。相変わらず、両下肢の鬱血は続いていた。その頃、不思議に思ったのは、従来は左足がひどく痛みと痺れに悩まされていたのに、今回から右足まで痛みが走ることにドクターの説明は色々話してくれたものの、自分では不安が増大していたのである。歩行器から両松葉杖に代わっりギプスも胴回りだけになって、それから一週間して休みやすみしながら歩行量も増えていった。でも心の中ではため息ばかり出る。小澤さんは既にギプスも取れて自由に過ごしていた。彼女との話はとてもためになり前向きな思考も共感できたが、術後経過の違いには余りにも大きく心の奥では嫉妬を覚えていたのも事実である。彼女は、予定通りの順調な経過で退院をしていった。私は、相変わらず、痛みから解放されることはなかった。本来なら私もその年の終わりには退院する予定であったが、痛みの原因を掴んでもらうことで、再度のミエロ検査を年越しで行われた。検査結果から以前した手術で後方に問題があることを告げられた。つまり、今回の手術は、私に適したオペにならなかったのであった。本当に検査結果を知ってからは、自分が描いた元通りの体になるという夢から遠ざかっていく自分に吐息が出たのである。

結論が出たからには、もうこの大学病院にいることは出来なかった。下の月岡ドクターのいる病院に大学からの経過状況と紹介状を添えて出戻りした状態になった。二月に入って、月岡ドクターの下に行くことになった。それまで、妻澄江も姉も心配の余りに、神様だよりになっていた。姉などは、東京の某TVに出演した霊能力者のもとにいって相談している有様で、澄江も色々な人から鍼灸師とかカイロプラクティックなどの情報を得ていた。姉の方は、自腹で三十万もの大金を支払って私にお守りと私の身に付ける下着にパワーを入れるからなどを信じていた。澄江も神頼みも姉の影響もあって凄く興味をもって信じ初めていた。
私の月岡の元に戻ることは、根本的には反対であった。だが、地元の病院で私を受け入れてもらえるところが無いことを知ると諦めていた。

その頃、私の仕事でも、一つの転機が訪れていた。T会社のH自動車の下請け会社ではあったが、私が大学出て就職した工作機械の会社で品質管理の知識を持っていることを知った人が、私にT会社に管理職として受け入れてくれるという話が舞い込んだのである。T会社は、私の住んでいるところから15分で通勤出来ることで、妻の澄江はいい話だからとその点では転職に賛成してくれた。私としは、足の痛みと杖が必要な状態であること、月岡ドクターの病院に通院する必要を承諾してもらい、転職したのである。その会社の構造は、継ぎ足した工場で平坦な通り道などなかった。足の不自由な人には、きつい職場であったが当初は、デスクワークを主にしていたので問題は出ることはなかった。しかし、半年もすると、この会社の弱点は品質管理以前の生産工程の見直しとコスト管理に問題があることが分かった。中小企業には、一人何役もの仕事をこなす必要が要求されるのだ。足の具合は、依然と痛みがあったが通院させてもらっている以上は、自分の体を心配している場合ではなかった。バブルもはじけて世間は、経済問題が新聞紙上を埋め尽くしている時代でもあった。

会社もコストに意識が漸く気が付き、余分なコスト削減と新たな市場開拓で大手の会社への取引材料にわが社の品質管理の資料提示を請求され、今まで作られることがなかった品質管理に必要な書類を急遽準備をしたのだ。それを手がけたのが私の上司の次長と私自信の二人で徹夜作業が続くことになった。それと平行してT会社の創立20周年祝賀を兼ねた従業員300人を慰安旅行のプロジェクトが立ち上がり、自分がそれも実行員に任命され精魂を費やした。病状は芳しくはなかった。その頃月岡ドクターは、桑名市民病院の整形外科医局長として転任された。私は、どんどん私の生活圏から遠退いていく状況になったが。しかし、桑名に代わっても、通院は続けることにした。どちらかといえば、今度は公立病院に移ったことで、月岡だけでは判断されず治療もチームとして進めるだろうから、安心できるのではと考えた自分がいたのだが、事実は全くそんな素人が考える医療の世界ではなかった。医者は単独で患者を自分の支配化になったら、他のドクターが口を入れることなどないことがこの後で分かることになる。

築港病院から桑名市民病院に移り、二年余りが過ぎていた。T会社に入社して一年半が過ぎて頃までは、痛みの時は、点滴注射と定期的な神経根ブロックでなんとか凌いで過ごしていたのだが、平成三年会社のイベントも無事終わり、大手企業の取引も順調だった時期に入ると、私の痛みの限界は超えていたのだ。十一月にはいると痛みで歩くこともままならない状況に陥ってしまった。月岡ドクターは検査入院を勧めた。会社も仕事が順調に回っていたので、入社当時から自分の状況説明も隠さず行っていた為、入院に対しては嫌な思いをすることもなく病院へ倒れこむように入った。ミエロ造影をして、月岡ドクターの説明では前方固定で脊柱は安定しているから、L4〜L5の椎弓を切除することで狭くなって圧迫している神経根を開放出来ると説明された。その時に確かに母校の三重大学の情報も得ているから期待できると言ったが、三重大学などの情報など得ている事はなかった。これも後から分かる。医局長である月岡ドクターの考えに異論を唱えるドクターはいなかった。結局十一月後半に後方第四椎弓摘出術と翌年の三月後方第五椎弓摘出術が行われた。結局入院は半年を越えることになった。月岡ドクターが考えた手術では、私の痛み緩和させることは出来なかった。もうため息も吐息も出る状況にはなかった。 
両手術の後、前方固定の手術をした時と同様に術後から2週間はベッド上から立ち上がる指示が出ても、私は痛みで立ち上がることは不可能になった。リハビリの先生が月岡ドクターのメニューで私をなんとか歩ける状況にもっていたが、今から考えると、人間の本来持っている立つ力、つまり重力に逆らう力が既にこの頃から弱りつつある進行形の中で痛みが併発していたのだろう。その兆候はこの手術を終えて、再度会社に復帰して八ヶ月後には、会社において臀部から両下肢に戦慄の痛みが走り、その場に倒れてしまったことが、私の最後の健常と障害を分ける時空であった。その後からは、もう元道理の体に戻れないことを自分の中にもなんとなく受け入れた初めていた。というより、健常者として戦うことがもう疲れ果てていた時期でもあった。心の奥底では、認めたくないのと治れるすべがあれば縋り付きたいという思いの狭間にいたのだと思う。倒れた時に、運び込まれた病院は、奇しくも最初に受診し、手術を受けた回生病院であった。元三重大学付属病院の整形外科の助教授であった藤田院長が、私の診断をしてくれた。この藤田院長は日本の整形外科医では指などの細かな関節治療(手術)については名医という知れ渡る人であった。その院長が下した病名は「腰椎癒着性くも膜炎」と診断し、難治病で治療が困難なことを告げてくれた。詳しいことは、全てナースにこれまでの報告を倒れた翌日に話をした後の診断であった。倒れたことは、既に桑名市民病院の月岡ドクターも知らせが入って、月岡ドクターは自分が初診から見ているため症状が安定したら市民病院へ転送依頼を既にされていたのだ。月岡と藤田院長のやり取りは私には分からないが、院長もこの病院では治療できないことを強く言った。私は、以前入っていた個室に一週間程入院して、桑名市民病院に転院したのである。病院の外は、最初に手術した真夏と同じ太陽が燦燦と降り注いでいた。月岡ドクターは、私の顔を見るなり病名を藤田の紹介状を見て、もう一度だけ癒着剥離をやってみないかと私に告げた。既に、もう治療方法がないと聞かされている私に遠くで会話をしているように感じた。

それまでに私は痛み止めにペンタジンという中枢神経用の薬を使っていたので、思考能力が低下していた。当時の私は、薬の内容を知らずに、兎に角激痛から逃れられたら助かるとの思い出だけで全くその薬を使うとどうなるのかも知ろうともしなかったし、ドクターも説明をしてもらっていなかった。だが、以上に注射の回数が増えたのは事実であった。薬依存症に掛かっていたのかもしれない。オペ承諾には、今考えるもう治る医療がないと分かっているのに、なぜか思い出せない。平成五年の八月には癒着剥離術を行ったが、全くの効果なく翌日月岡ドクターの回診の際に、痛みが取れないのなら神経を決断してくれた方がよほどいいと懇願した。もうその時は、私自信精神的に限界に来ていた。月岡ドクターも険しい顔で本人が望むのであれば、切断術を行ってもいいと言い捨てて病室を後にした。結局、剥離術は成功せず、同年の十月の初旬には左L5神経根切断術を行った。それなのに痛みは消えなかった。自分でも何がどうなっているのか?疑問だけが残ったのである。



第六章 憎しみの連鎖


私の月岡ドクターへの不信は、回生病院での藤田院長の診断の説明から生まれたのだった。それを裏付けたのが平成五年の癒着剥離の手術からで、前章にも書いたように感情が露わになったのが、神経切断術を訴えた自分自身なのだ。その頃から、月岡ドクターに対して不信を超えた憎しみに変わってしまった感情もあったことも否めない。
  悲しいことに私は、人を信じるという基本的なことが出来なくなっていた。何が正しくて、何をすべきことなのかが五里霧中の状態に落ちいてしまったのだった。つまり、これ以上、治療は不可能だという言葉と月岡ドクターのもっと治療を積極的に進めようという考えの違いの狭間で、自分のこれからどう選択してよいのかが分からなくなっていたのだ。つまり、私の心の奥にも、この痛みから解放されたいという気持ともう何をしも無駄なのだという諦めの気持が責め合っている状況に心身ともに悲鳴を上げている状況の中にいた。

また、我が家の中でも、不協和音が続いていた。その頃、父の様態が思わしくなっていたのだ。父の場合は、十五年前に脳血栓で、左半身が不自由になって、言葉もうまく話すことが出来ない状態が続いていたが、私が、平成三年の椎弓切除術を受ける前に、二度目の発作で倒れたのである。我が家は私と父の二人の入院に沈んだ状況になっていた。妻澄江にも、姉の神頼みという非科学分野へどんどんのめり込んでいった。誰しも、一家に不幸が訪れると、何がその背景に不吉なものが潜んでいるのでは・・・・・と考えるのも自然な心理になるものなのだろう。だが、私は、非科学的な信仰心には関心を持たなかった。極身近なものには藁をもすがる気持になることを、私は完全に理解していなかった。つまり、自分のことばかり考えて、家族の心の不安を思いやる心がなかったのである。
私の一度目の椎弓切除術を行う前に、妻がどこかの新信仰宗教団体から我が家の仏壇に邪気があると告げられ仏壇の仏様の鼻が欠けていると言って、新しい仏様を買いたいと言い、二度目の椎弓切除術を行う前今度は随分以前からある床の間の石堀の猿に悪い霊が付いているからからと言われた病室にやってきた。病室に来るたびに、どんどんエスカレートしていくのである。世間には人の不幸に付け込んで、色々なことを言って不安を煽る団体がいるのだった。でも、私にもその不安げな表情から、あまり反論出来ないでいたのだった。まだ、その頃は、自分にも精神的には落ち込みはなかったからである。
しかし、平成五年頃からはもうそういう家族の心配ごとに対しても、嫌気がさしていた。身勝手な話である。妻も、姉も私に良かれと思ってやってくれていることなのに、当の私はそういうことには関心が持てなかったのだ。その為のお礼の心付けのお金すら無駄なお金だと思っていたのである。(可也のお金を支払っていたらしいのだ。)

そんな中、平成五年三月に父が他界したのだ。私は、それ以降下肢の痛みと共に精神の病とも共存していくことになるのだ。私だけではない。妻の澄江も次第に私との距離が生まれつつあった。その頃の私は、これもすべて月岡ドクターの治療に責任転換していた。その憎しみが、家族の不幸を増大させることになっていった。
私は、平成五年の神経切断術の後、退院した後は、平成六年〜平成八年二月(以降会社退職)まで会社を休業することにしたのである。、もうその頃の私は、働く気力すら残されていなかった。かろうじて、治療をどうするのかを考えることに専念したかった。
これまでの治療は全て労災で賄われていた。生活もなんとかやってこられたのも労災が適用されたことが最低限度の生活を維持できた基礎でもある。それなのに、私は労働災害として認定されたことすら憎んだった。もし、あの時(最初に回生病院で入院していた頃のことである)労働基準監督署の若い二人の人が現れて、会社の総務部長から労災認定の要請で確認にきたと告げて、色々その腰を痛めた時の状況などを事情説明に対して一人の男性が「そうですか!それで椎間板ヘルニアになった訳ですか?」と燻し(いぶし)げにこちらを見たのである。「今までに腰痛になったことはないですか?」と疑うような言葉使いで尋ねられた。私は当時自分から労災認定を申し出たこともないので、少し不愉快に感じた。私はないとはっきり答えた。すると労働基準監督署の方が「これまでに椎間板ヘルニアを労働災害に扱ったという事例がないからね!」と続けて「まぁ検討してみますが、ドクターともこれから聞いて見ますが、期待されない方がいいですよ」と私に諭すように言って出ていった。私も当然今回のケースが労災認定されるとは思っていなかったのであった。しかし、予想以外のことが一ヶ月余りすると会社の専務から労災認定が降りたからゆっくり休むように言われたのである。
人生にもしもはないが、あの時に労災認定されなかったらこんなに手術を繰り返したのだろうかと、会社を休業して時間的にはたっぷりある私の一人問答が続いたのであった。恐らく、労災認定されていなかったら、私は手術を受けたのだろうか!とそこまで考えると、全て、会社のとった行動までが、憎いように思えたのである。そもそも、自分が会社休業していられるのも、労災での休業補償が許されているからなのだが、当時の私は、全てが他人のやったことに猜疑心を抱いていたのだった。醜い心の持ち主であった。
しかも、その休業での時間は自分を腐食させていく時間でもあった。医療といっても、月岡ドクターは、平成五年の暮れに自損事故によって左かかと骨折で四ヶ月間入院してしまった。当時の私はそのことすら天罰が降りたのだという卑劣な考えを持ったのである。
月岡ドクターが入院している間も、市民病院には通院していた。当時は若い医者で五谷という医者と草加という医者がいたが、二人とも入院している時から、回診の時によく顔を合わせていたのだが、二人とも外来では他人行儀な診察であった。草加先生は、自分は手術には加わっていなから、私のことはよく分からないから月岡ドクターが復帰されるまで投薬だけにしてくれないかという始末であった。とても、不愉快な思いとなお更心の憎しみが誰に向けることも出来ない歯がゆさで苦悩していたのだった。

私は、月岡ドクターが入院している間も地元のクリニックで痛み止めのペンタジン系の中枢神経薬の注射を受けていた。これは、事前から月岡がこのクリニックに時々応援で診察していた時に私も地元で診てもらえることのメリットがあった為、そのクリニックには非常時の場合は月岡ドクターから指示してもらって、痛みの対処治療をお願いいていたのである。
しかし、当時のクリニックの院長は、中枢神経薬の使用は副作用として薬物中毒になるからということで私に時折、違う注射を勧めてくれたのである。当時の私は、その忠告すら疎ましく思った。今、思うと有難い忠告なのだが・・・・!
月岡ドクターが復帰された後、平成7年から仙骨ブロックと神経根ブロックを併用して治療するが痛みの解決策には程遠かった。神経根ブロックはレントゲン室で行われたが、時々月岡ドクターは、準備が出来るまで私をレントゲンの寝台の上に寝かせて置いて、ドクターはモニター室でゴルフのスウィングをしてレントゲン技師と愉快そうに笑っている様子が見えると、私は自分がこれだけ苦しんでいるのに、いい気なものだとこれから治療をしてもらう先生のことを心ではこんな先生に治療を託している自分が哀れに思うのであった。
平成七年頃の当時の私は、ペンタジン中枢神経系(クリニックではソセゴンという薬)の注射の回数が増え始めたことで、院長も婦長も薬の副作用である薬物依存症への懸念をしきりに説明された。それに代わる薬としてスタドールという名の注射を試みていたが効果はなかった。
その為、クリニックから暫く足が遠退くことになるのだった。が、市民病院までペンタジンの注射を打ちに通うことになった。しかし、クリニックの先生の言われるように注射の回数が増えていったことは依存症にかかっていたのだと思う。
平成七年七月には月岡ドクターとかなり突っ込んだ意見の交換があったときでもあった。私の生活上のことも含め又、これまでの治療がなぜここまで来ても効果を見ることが出来ないのかもっと違う方法があったのではないのかと私は自分が思っていることの半分のことを伝えたと思う。後の半分を言えないのは月岡ドクターを罵る(ののしる)言葉になってしまうからである。そこまで私の心は追い詰められていた。
その月の後半に無水エタノールでの永久ブロックが行われた。治療として五回の回数受けることになった。そのブロックは、下肢に焼けるようなひどい戦慄を覚える治療であった。それと同時に、三重大学の精神科に通院していた。病名はうつ病であった。ただ、精神科に通院したが、解決出来るものではなかった。私の心の病は、こうした状況に追い込んだ全てのものに対してへの憎しみだけが心を支配させていたからであった。
その頃、新聞に脊髄電極を埋め込む手術で痛みが取れるいう新潟大学医療チームの記事を目にしたのである。それを、月岡ドクターに話したが、あまり関心を示さない様子であった。しかしこの記事が私のこの後の行動を少し前に目を向ける指針でもあったのだ。



第七章 医療不信と家庭崩壊

私は平成五年十月の手術を終えて、リハビリの先生に指導を受けながら自分の体のことを考えていた。既に、癒着剥離術を何度も経験している私には神経根切除術が実際に行われたかどうか疑問に思えていたのである。確かに、左足の感覚麻痺はあったが、癒着剥離術の後と何の違いも感じることが出来ないでいた。それは、私が主治医に対して信頼をしていないことが、そういう考えを持たせたのかも分からないのだが・・・・これは執刀した医者だけの真実をしていることだから、単なる私の推測に過ぎない。
そうした時間を入院している中で、ある時に病院にある新聞(朝日新聞だと思う)の県内版に医療過誤の110番という記事を目にした。電話で受付しているということで、夕刻車椅子を外来ロビーまで降りて誰にも気づかれないように、その記事にあった電話番号にドキドキしながら公衆電話を手にしていた。出てきた人は、男性でテキパキと質問してきて後から書類を送るから、再度記入して送り返して下さいと言われた。私は、ドクターを訴えるとか具体的なことは考えていなかった。自分の状況が、医療過誤に当たるものなのかが知りたいだけであった。そのことを聞くと、受話器の向こうの男性は詳しいことが分からないと答えられないと再度書類を書いて送り返してくれた後から、検討すると言われるだけだった。書類は、一週間ほどすると自宅に届き、その書類を妻の澄江が届けてくれた。私は、種類に目を通したがそれをどうするか決めかねていたのである。

会社を休業して以来、一人で考えて事が多くなった。それは最初の手術のことである。諦めの悪い男である。
堂々巡りをしているのだが、あの手術になんの問題もなければ今の自分はもっと違った人生を送っているはずだったと、あの時に何が私に起きたのか本当に知りたかった。でも、それを知る方法がないのだ。既に時間も経ってあれから七年近く過ぎてからではどうしようも無いことを自分に言い聞かしても・・・・・・このことが頭から離れることが出来なかった。それと、二度目の手術の時に、大学からきた先生が二度目の手術を考え直した方がいいと言われたことも頭から離れない。
あの時に、なぜ月岡ドクターに私がそのことを伝えた時に、なぜ強硬的に手術したのだろうか?あの時、ドクターは手術しないと十年後には大変なことになるかもしれないからと言われたが、その大変なこととは今の状況のことを指しているのだろうか?などと考えてもどうにもならないことが次々と頭の中を埋め尽くし、その内に思考停止状態となった。

平成七年に労働基準監督署から月岡ドクターの所に連絡がはいり、労災認定からかなりの時間が経つため経過説明と障害が残る場合はその認定をしたという。私には、労災に関しては無知であった為、月岡ドクターの計らいに負かした。先生は、障害は七級が妥当たろうといった。私も分からないままに承諾したのだった。
ある日、労働基準監督署から障害認定をするために署まで出向いてほしいと要請があって出頭した。色々な質問とこれまでの手術内容と傷跡などを写真に収められた。なんだか自分が警察で事件調書を取られているように感じた。その担当の人が、障害者手帳と社会保険庁に障害厚生年金の手続きも取ったほうがいいと教えてくれた。私も、分からないことだらけで、言われたとおりにその手続きをすることにしたのである。それが、また、医療不信に繋がる結果になるのだった。
月岡ドクターにそのことを話すと、種類を出せばすべて書くからと気楽に言っていたのだ。障害者手帳の交付に関しては手続き上問題なかったが、社会保険庁の方はそう簡単ではなかった。最初にもらった書類に医師の意見書など必要と思われることは全て埋めて郵送した。しかし、三ヶ月経つと書類不備で差し戻しになった。原因は、病気が発病した時の病院証明がないということだった。それで、最初の初診の際にかかった回生病院へ出向いて事情説明してカルテを探してもらったが、七年近く経ているため直ぐに探せ出せないと言った。ただ、その事務員さんは私が当時入院していた時の人で、私を覚えていてくれたことが後で助かることになった。数日後、回生病院も事務員から電話が入り、どうしても私のカルテが見つからないというのである。その時に病院のカルテ保存は五年が法律で決っているが、その後は各病院によって違うということであった。私は、月岡ドクターに外来診察している時にそのことを話すと、自分が最初から見てきているのだから、最初のカルテなんか要らないのでは・・・と言葉を濁した。月岡ドクターが言われるように、社会保険丁の担当者と話して事情を説明した。しかし、初診記録がないと審査出来ないことを伝えられたのである。カルテ探しに一ヶ月が経っていたころ、自宅に回生病院の事務員の方から電話が入った。調べたら七年前のカルテは保存してあるので、私のカルテが無いことが不思議だが、もしかすると月岡ドクターが持ち出している可能性もあるというのだ。その時点で又月岡ドクターの不信が強くなった。翌日、早速月岡ドクターに面談して事情を聞いた。すると、
いかにも今思い出したように、転勤が決って築港病院に転任する際に持ち出したかもしれないから自分が築港へ連絡入れると言ったが、私は、もう信じることが出来ないので、私自らが築港に行くことを強く主張した。築港病院の事務員と以前入院していた時の看護士さんに事情を話してカルテを探してもらうことになった。だが、その病院からは私の築港病院のカルテはあるが、それ以外のカルテが無いことをつげられたのである。
それから一週間もしない内に、月岡ドクターから連絡が入って自分の手元に回生病院の初診時のカルテがあったので、回生病院へ送ったということだった。色々言い訳をしていたが、私の耳には入ってこなかった。不信もピークに達していた。そしてどうにか回生病院にカルテが届いたことの連絡が入って、漸く必要な書類が整ったのだ。それから、社会保険丁の審査になった。丁度そのことは、和歌山の毒物カレー事件で容疑者が偽りの障害認定が問題になっている時期でもあった。私は、こんなに手間が掛かるのに偽りの障害認定が可能に出来るのかが不思議でならなかった。それと同時にドクターがカルテを持ち出していたことが改ざんされているのではという不安に心が乱れていたのである。社会保険丁からの障害認定に八ヶ月要したことになる。

そんな状態の中我が家では、夫婦間の溝が大きくなり始めていた。妻の要求は兎に角別居してほしいの一点張りであった。妻澄江は、平成四年ころから外へ仕事を求めるようになっていた。確かに、私の経済力では不安は当然であった。私も、積極的に賛成ではなかったものの、拒む理由もなかった。働き出してからの彼女は、見る見る内に変化して、活き活きして私からみても輝いていたのである。当然、帰ってくると、職場の話など以前より話題も豊富になった。しかし、私はそんな彼女の快活な話についていくことが出来ない状態が続いていたのだ。逆に、彼女の活発さが妬ましいと思うほど自分が惨めになっていた。別居の要求に時間をかけることぐらいの抵抗しか残されていなかった。情けない男である。



第八章 翔る心&男の子育て(最終章)


人の心は、一端塞ぐ(ふさぐ)と誰がドアをノックしても自分の意思でない限り扉は開かないのである。自分で糸口を見つけることが遠回りしたとしても、人に縺れた糸を紡いでもらうには無理が生ずるのである。例えが、良くないかもしれないが?ダイエットを何かに頼って細くなってもリバンドするのとよく似ている気がする。
私の場合は、新聞で脊髄電極埋め込みのことが頭から離れなかった。これが一つの糸口になるのだった。月岡ドクターに関心は持たれなかったものの、私の心の中にはその方法が頭の中から消えることがなかったのである。しかし、新潟県まで行く勇気も持ち合わせていなかったのである。それが、労働基準監督署の人が障害認定を最終的に決めるに当たって、三重大学病院の整形外科のS先生の診断が必要ということで、塩浜先生の診断を受けたことがきっかけになった。月岡ドクターの七級が塩浜先生の意見とは異なって先生は三級に該当するのだということになった。それで、痛みの件のことを尋ねると、同大学の麻酔科ペインクリニックのK先生を紹介してもらった。K先生は助教授で、これまでの経過を話し中枢神経薬のことを話しすると、地元のクリニックの院長の意見と全く同じで薬依存が少ないレペタンという薬なら痛みを緩和出来る効果があることを教えてもらい、クリニックに使用してもらえるように手配してもらった。私が、痛みの相談以外に生活上の悩みが生じた時も、話出来るとても温和で患者のことを親身に考えてもらえるドクターに巡りあったことは私の救いとなった。又、レペタンの注射も使用も最初は吐き気とか目眩(めまい)などの副作用が半年あまり続いた。でも、これもドクターの説明で不安を取り除くことが出来たのである。レペタンという薬は癌患者の方に使用される薬であるので、使用から半年を過ぎた頃にはドクターは率直にこの薬を長期に使用する場合は、当時の厚生省に報告する義務があることまで伝えて私にその報告の承諾を取る徹底ぶりに安心して何事も言える医者に遭えたことが心を開放するきっかけになった。
まだ、このドクターと会って間もないころに、ドクターからもし私が医療過誤として考えているのであれば、私がこの先に見てもらう整形外科医の人選を考えなくてはならないから、その時は正直に相談するようにまで考えてもらえるドクターだったのである。

その麻酔科のドクターと会った時期からは少しずれるのだが、医療過誤110番のアンケートを既に記載していたが、どうしても郵送することが出来なかった自分が障害認定という岐路に立ったときに今相談する時期にあると確信して、思い切って電話相談してみた。それは自分が病院から公衆電話をしてから二年も経過していたのだが、その法律相談所の福村弁護士は快く相談に乗ってくれるからというのであった。私は、その話ぶりから自分の意向を全て受け入れてもらえると思っていたのである。しかし、福村弁護士は私の話を聞き、そして送ってもらった資料を見ながらこう話を切り出したのだった。
「彼方はなぜ医療過誤と思うのですか?」という、私は散々自分の事を話した後の言葉であった。私は内心この弁護士自分の話を理解していないのだろうと思って、同じことを話し出すと
「私の言いたいのは、そういうことではなく医療過誤という現実的な事実の立証が出来るのかということなのだよ!」というので、
「それは、先生が証明してもらえるのではないのですか?」というと、医療過誤というのはそういう甘い考えでは勧められないことなのですよと、私に諭すようにいうのである。つまり私の考えは医療過誤ではないかどうかということを想像で話しているだけで、証拠となるものが全く提示されてないと反論されたのであった。その時点で私の考えは単なる疑問域から抜けないことに気がついたのであった。福村弁護士は医療過誤の実態についてこんこんと説明してくれた。その話では、医者の決定的なミスとか患者からまともに話し合わない卑劣な医者などそういう場合に限って医療過誤として現実に動くケースになるらしい。私の場合は、治療に対して逃げているわけではなく、向き合った結果を裁判で争うケースではないことを説明された。私も話を聞いて医療過誤という概念を知ったわけであった。自分でも自分が思い道理ならなかったことに苛立ちをむけているだけであることに気がつけたことに福村弁護士に会って良かったと思った。弁護士は続けて
「彼方がこの先に人を恨み憎しみ生きて行くのも人生ですが、人を許して生きる方法も人生ですよ!選ぶのはあなた自身ですから」と言われた。私はこの言葉のもつ意味がとても深い言葉として心の中に入り込んだのだ。これまでの私の人生を変える一言になったのである。この弁護士も私の人生の岐路に重要な人物となった。
私が一番悩んでいることは何かと尋ねてくれた。
「私は、迷わず痛みが取れたら一番有難いのですが・・・・」というと、福村弁護士はメモを取り出して県立奈良医科大学に脊髄電極埋め込みで痛みが取れる先生を知っているからというのであった。ちょうど私が申し合わせたように感じた。実は私も・・・・・と一枚の新聞記事を見せて、
「是非紹介状をお願いします。」
と、頼んだのである。人生というのは不思議なことがあるものだと心の中で思っていたのであった。福村弁護士は、名刺の裏に添え書きをして自分の名前を見せれば分かるからと言って去っていった。
それから、まもなくして三重大学付属病院の麻酔科を受診して、県立奈良医科大学での脊髄電極埋め込みの話をして効果を聞いたが、まだ十分なデータがないという答えだったが、駄目もとで試して見る価値はあるとアドバイスをいただいた。私は、レペタンの注射も回数が増えていたこともあって、平成七年の秋に奈良医科大学を訪れ色々話を聞いて痛みを緩和出来るデータを示してもらい、その年の暮れに親友の車に乗せてもらい電極の埋め込みに挑むことに決心したのである。治療後、生活は車椅子を必要となり、この大学病院の整形外科で受診することを勧められて受診すると、これまでの障害等級を見直した方がよいとのアドバイスであった。自治体が違うと手続きが困難となる場合があるため、三重大学付属病院で再度障害認定をしてもらうことになった。
効果は優れたというには程遠いと思ったのだが、現時点で考えられる自分納得できる治療と割り切った。その後二年置きにこの埋め込んだ装置はトラブルを起こしたが、以前の私なら全て人に責任転嫁していたと思うが、このトラブルも自分の生きる上での試練と思うように努めるようになった。また、障害に対しても、以前のように昔のようにと考えは持たないよう心がけることもひとつの収穫と思えるのである。

ただ、全てが順調に戻った訳ではない。自分の事は解決策を見出せたが、家庭の中は一段と冷たい風と大きな溝が出来ていたのである。修復出来る段階でないことも自分では分かっていた。自業自得とはこういうことなのかもしれない。妻とは別居後半年で離婚となった。そして、彼女は新しい家庭をもって生活するのである。
ここで私の子供たちことについては少し紹介してます。幼くて物心が付いた時から二人の子供たちは父親が入院していることが当然のように育ってきたようです。下の娘の思い出は常に父親が病室にいることであったようです。私が入院していた病院の側を車で通る時に、必ずあそこの病院お父さんの病院だよね!となんの違和感もなくいうことが多かったのです。
そして、男の私が子育てをすることになった。誇れるような子育てはしてこなかったが、少なくとも二人の子供たちの性格を十分弁えた上で子供と向き合ってきました。上の息子は生まれた時から手のかかる子でした。それは長男ということもあって回りのみんなから可愛がられたことで、自分主張をしっかり持つ性格とやさしい心も備えている子です。また感の鋭いところもあって、私たち夫婦が不仲になった時期も親の心を察して行動していました。私から見ると意地らしいくらい気を使っていたのでしょう。離婚が彼の思春期に入っていた為、私は子供のことが気になっていたのですが、不仲のまま暮らすことの方が子供のストレスを増大すると判断したのでした。でも、男一人で益して私が車椅子生活を送る中で子供に負担を懸けないということは無理があったし、下の娘もまだ小学校五年で親が離婚するということがしっかりとは分かっていなかったように思えます。しかし、娘の中では深刻な状態だったのかもしれません。母親との別々の暮らしにはストレスが掛かっていたのだと思えた。下の女の子は全く手の掛からない子ではあり、その明るさが私の救いでしたが、親の離別で娘の明るい性格が無くなることが一番私には絶えられないことなのでそうならないように願うことでした。離婚に関しては以前にお世話になった弁護士さんの事務所を通して揉めることはなかったが、一つ契約書を交わした中に離婚後は私の家には来ないこと。子供とは月に二度しか会うことは出来ないことなどという決め事の文面を作ってもらってお互いに捺印して後に揉めることがないようにしたのですが、私の知らない間に子供たちの側から母親と電話連絡を取っていたのだ。初めは自分もショックでしたが、子供たちのことを考えると母親に話をしたいという気持ちは当然のことであって、私の感情を子供たちに押し付けることは惨いことのように思えてきた。その為、時折母親は子供を尋ねて私の家に来るようになった。子供たちとも自由に連絡を取らせている。別れてから暫くして彼女は、結婚しているのだ。だが、私は、子供たちが母親を必要と思う時には、子供の考えを優先しようと決めたのです。これは決して、私が障害をもっているから折れたわけではないのであると主張します。
男が子供を育てるというのは、今の時代まだまだ難しい時代なのだ。もちろん、母子家庭に於かれても問題は、沢山あるだろう。ただ、父子家庭においては、行政もまだまだ母子家庭以上に対策が遅れている。社会的にも、男が子供を育てる環境がないことも事実なのだ。幸いにも私は、家庭で仕事が出来たのであった。つまり、在宅勤務が子供たちを育てていける環境に恵まれたといえるのだ。私の場合離婚前に家の別棟に車椅子で生活できる最低限度のスペースを建てていたので、生活事態が無理のない状態であったことが幸いしたのです。といっても私が出来る範囲で、子供たちとの食事とか洗濯とか浴室など車椅子で十分動けたことがこれまでの生活を維持出来たのであります。
また、子供は少なくとも中学を出るまでは、どうしても家庭に親がいる環境がベストだと私は今でも思っています。古い考えだと思うかもしれないのですが、事実私が子供たちを育ててきて、その日の帰ってくる顔を見ると子供のその日の状況が大体分かるのです。子供たちは毎日違う表情をしているのでその些細な事でも見逃すと後からでは取り返しの付かないことに繋がることもあると私はこれまで育てた中で経験しました。してはいけないことをすれば、子供はその時点で叱らなくていけない。それも、子供の話を聞いた上で納得出来るように説明すると、理解をしてくれるのです。時間が経ってから怒ってもなんの解決にはならないのだと思う次第です。これは、幼い子供だけに言えるのではなく、思春期までが大事なのだと私は思うのであります。 ただ、父親は母親にはなれないということもはっきり分かりました。両親だと役割分担出来るところも一人では両立出来ない歯がゆさも経験しました。親はいつまでも子供には心配は尽きないですが、どうにか息子はを成人し娘は高校を出て二人とも今は大学生活を送るところまで育てられました。

最後に、私自身が障害をもって子育てをしてきましたが、回りの方にすごく甘えてきたように思う。自由参観も学校行事も学校の役員も全て地域の方に助けてもらった。まず、学校の建物がバリアフリーになっていないことも理由の一つに上げられる。でも、私が、進んで参加を望めばきっと学校の先生方も手伝っていただけただろう!ただ、先生方も私が学校に行けない分先生方が家庭訪問をよくしてしてもらった。もちろん、私の耳に入って来ないだけで、無責任な親だと思っている方も多いのかもしれない。私の考えとしては、任せられるところは地域の方や先生に全て丸投げでお願いするしかないと思っていた。中途半端に口は出すが、自分が出来ないから行動しない。というより口も出さなし、行動も出来ないと思っていただいた方がいいのではないかと自分に言い聞かせてやってきたのであった。勝手な言い分なのだろう!いうなれば我が家の子供たちは地域のみんなが育ててもらったことになるのであった。私の子育てはこんな状態でなんとかやってきたのである。つまり、子育てに関しては、地域の方、先生、そして友人たちに感謝する次第であります。子供たちには、こんな父親でしたが、まずまず成長してくれて有り難うです。社会に対しても色々感謝の一語に着きます。
そして、わたしと出会った一期一会の皆様にも感謝しています。これから、出遭う方には、どうぞ宜しくと記してこの筆を終えます。


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